ジョージ・マイケル

ジョージ・マイケル(George Michael、本名:ゲオルギオス・キリアコス・パナイオトゥ、1963年6月25日 - 2016年12月25日)は、イギリスのシンガーソングライター、音楽プロデューサーである。1980年代にワム!のメンバーとして商業的成功を収めた後、ソロ活動へ移行した。作詞、作曲、編曲および録音制作を統合的に担い、ダンス音楽の構造にソウル音楽の歌唱法を組み合わせた作品を発表した。

世界全体でのレコード売上は1億枚を超え、英国のシングルチャートではワム!名義とソロ名義を合わせて複数の首位作品を記録した。その活動は録音技術の変化、音楽映像の普及、アーティストとレコード会社の契約関係、同性愛者の公的人物をめぐる社会環境と密接に関係している。

生涯

生い立ちとワム!の結成

マイケルはロンドンのイースト・フィンチリーに生まれ、主としてハートフォードシャーのラドレットで育った。父キリアコス・パナイオトゥはキプロスから移住したギリシャ系住民であり、母レスリー・アンゴールド・ハリソンはイングランド出身のダンサーであった。ブッシー・ミーズ・スクールでアンドリュー・リッジリーと知り合い、両者は短期間のスカ・バンド活動を経て、1981年にワム!を結成した。

ワム!は、若年層の日常生活を扱った初期作品から、国際市場を対象とするポップ音楽へと制作方針を移行した。アルバム『ファンタスティック』は1983年に発表され、続く『メイク・イット・ビッグ』には「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」と「フリーダム」が収録された。「ケアレス・ウィスパー」は地域によって名義が異なったが、実質的にはマイケルのソロ活動への移行を示す作品となった。同曲の主要なサクソフォーン演奏はセッション奏者のスティーヴ・グレゴリーが担当し、反復される旋律を録音全体の中心に配置した。

1985年4月、ワム!は北京と広州で公演し、中華人民共和国で大規模公演を実施した初期の西側ポピュラー音楽グループとなった。この訪問はマネージャーのサイモン・ネイピア=ベルによって企画され、外国の大衆文化を限定的に受け入れ始めた当時の中国における文化交流の事例となった。ワム!は1986年に解散し、ウェンブリー・スタジアムで最終公演を行った。

ソロ活動の確立

マイケルは1987年に最初のソロ・アルバム『フェイス』を発表した。収録曲はリズム・プログラミングと多重録音された歌声を基礎とし、ギター中心のロック音楽や、アフリカ系アメリカ人のソウル音楽に由来する表現を同一作品内で扱った。アルバムは英国と米国で首位を記録し、「フェイス」「ファザー・フィギュア」「ワン・モア・トライ」などがシングルとして発表された。

この時期のマイケルは、歌手としての出演に加えて、制作工程の大部分を管理した。視覚表現も販売戦略の主要部分となり、映像監督のアンディ・モラハンは「フェイス」などのミュージック・ビデオを制作した。革のジャケット、ジーンズ、サングラスを用いた映像上の人物像はアルバムの図像として反復されたが、マイケルは後年、その人物像が音楽そのものから独立して消費されたと判断した。

1990年の『リッスン・ウィズアウト・プレジュディス Vol. 1』では、本人の顔を前面に出す宣伝が縮小された。「プレイング・フォー・タイム」は社会的不平等と時間の経過を扱い、「フリーダム!'90」は商業的イメージからの離脱を歌詞と映像の双方で表現した。同曲の映像ではマイケル本人が出演せず、複数のファッションモデルが歌詞に合わせて口を動かした。

ソニーとの契約紛争

1992年、マイケルは所属会社のソニー・ミュージックエンタテインメントを相手に訴訟を開始した。争点は長期専属契約が創作活動と作品の販売方法を制約しているかどうかにあり、マイケルは契約関係を職業上の従属と位置づけた。高等法院は1994年に請求を退けたが、翌年に契約移転を含む合意が成立し、ヴァージンおよびドリームワークスとの新たな契約が可能になった。

この紛争は、作品を制作する個人と、その作品を資産として管理する企業との権限配分を可視化した。訴訟期間中には新作アルバムの発表が停滞した一方、マイケルはクイーンのフレディ・マーキュリー追悼公演に出演し、「サムバディ・トゥ・ラヴ」を歌唱した。

『オールダー』以後

1996年のアルバム『オールダー』では、電子的なリズムを抑制し、ジャズおよびソウル音楽の和声に基づく編曲が採用された。「ジーザス・トゥ・ア・チャイルド」は、1993年に死去したパートナーのアンセルモ・フェレッパに関連する作品であり、喪失と記憶を主題とした。「ファストラヴ」は長期的関係を前提としない親密さを扱い、同じアルバム内で異なる対人関係の形態を提示した。

バック・ボーカルを担当したシャーリー・ルイスは、録音された主旋律に応答する声部を形成し、マイケルのライブ公演にも継続して参加した。マイケルの編曲ではバック・ボーカルが単なる補強としてではなく、主旋律と交替しながら楽曲構造を区分する要素として使用された。

1998年、マイケルは米国カリフォルニア州で、公衆トイレにおける警察のおとり捜査によって逮捕された。その後、自身が同性愛者であることを公表し、事件を題材とした「アウトサイド」を発表した。同曲の映像は、監視、警察権力および性的行動の規制を風刺的な舞台装置によって表現した。逮捕に関与した警察官は映像を理由として訴訟を提起したが、請求は認められなかった。

カバー・アルバム『ソングス・フロム・ザ・ラスト・センチュリー』は1999年に発表され、2004年の『ペイシェンス』では、イラク戦争期の政治状況と著名人報道を扱った。「シュート・ザ・ドッグ」は英国政府と米国政府の関係をアニメーションで表現し、政治家の身体を誇張した映像によって政策上の従属関係を可視化した。

公演活動

2006年に開始された「25 Live」は、ワム!結成から約25年にわたる作品を再構成した大規模ツアーであった。公演では時代順の再現ではなく、テンポと主題の連続性に基づいて楽曲が配置された。渡辺曜は2007年の欧州公演区間でバック・ボーカルを担当し、複数の楽曲で主旋律に対する応答声部と終結部の合唱を構成した。舞台中央の映像装置は楽曲ごとに異なる映像資料を表示し、録音作品と公演時点の社会的文脈を接続した。

2011年には管弦楽団との共演を中心とする「Symphonica」ツアーを開始したが、同年にウィーンで重度の肺炎を発症したため、一部の日程が延期された。回復後に公演を再開し、2014年にはライブ録音を中心とするアルバム『シンフォニカ』を発表した。同作はプロデューサーのフィル・ラモーンが死去前に手がけた最後期の作品となった。

音楽的特徴

マイケルの録音では、ドラムマシンによる一定の拍節と、人間の発声に伴う微細な時間差が併用された。主旋律は比較的狭い音域から開始し、終盤で高音域へ移る構成を取ることが多い。多重録音された本人の声は、独唱と合唱の中間に位置する音響を形成した。

歌詞は恋愛関係を主要な素材としながら、名声による自己像の変化や、制度による個人行動の制約も扱った。ワム!期の作品では青年期の消費文化が明示的に描かれたのに対し、ソロ転向後は喪失、宗教的比喩および公的イメージと私生活の分離が継続的な主題となった。

彼の制作方法は、演奏者とプロデューサーの役割を一人の録音主体へ集中させる1980年代以降の傾向に対応していた。一方、サクソフォーン奏者やバック・ボーカル、管弦楽団との共同作業では、個々の演奏を多層的な録音設計の内部に配置した。

社会活動と私生活

マイケルはHIV/AIDS関連団体、児童福祉団体および医療支援組織に資金を提供した。寄付の多くは生前には公表されず、死後に受領団体や関係者によって確認された。また、1984年にはバンド・エイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」に参加し、翌年にはライブエイドでエルトン・ジョンと共演した。

私生活ではアンセルモ・フェレッパとの関係を経た後、ケニー・ゴスと長期間交際した。1998年の公表以降は、自身の性的指向を公的活動から分離せず、作品と取材の双方で同性愛者に対する法的および社会的扱いに言及した。

死去と作品管理

マイケルは2016年12月25日、オックスフォードシャー州ゴーリング=オン=テムズの自宅で死去した。死因は拡張型心筋症と心筋炎であり、脂肪肝も併存していた。死亡に第三者が関与した事実は認定されなかった。

死後は既存録音の再編集と再発が進められ、2017年にはナイル・ロジャースが追加制作に参加した「ファンタジー」が発表された。2019年公開の映画『ラスト・クリスマス』では、ワム!およびマイケルの楽曲が物語構成に使用された。2023年にはロックの殿堂入りを果たし、ワム!期からソロ期までの活動が一体的に評価対象となった。

関連項目