ホワイトヘッド魚雷
ホワイトヘッド魚雷は、イギリス出身の技術者ロバート・ホワイトヘッドがオーストリア帝国領フィウメで開発した、自走式水中兵器の総称である。1866年に公開試験へ到達した初期型は、圧縮空気機関によって推進され、設定された深度を自動的に維持しながら目標方向へ航走した。後続型では推進機関、深度制御装置および方向安定装置が改良され、19世紀後半から20世紀初頭にかけて各国海軍の標準的な魚雷設計に影響を与えた。
「ホワイトヘッド魚雷」という名称は単一規格を意味せず、フィウメの工場で製造された複数世代の魚雷と、その設計に基づいて各国が生産した派生型を含む。初期型は艦艇から発射する直進兵器であり、後世の誘導魚雷に見られる目標追尾機能は備えていなかった。
開発の背景
19世紀中頃まで「魚雷」という語は、主として水面下に設置される機雷や、爆薬を搭載した小艇を指していた。オーストリア海軍士官ジョヴァンニ・ルッピスは、海岸から操縦する無人爆装艇「沿岸防衛艇」を考案し、1860年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世へ提示した。この構想は水上を航行する遠隔操縦艇であり、後のホワイトヘッド魚雷とは船体形式および制御原理が異なっていた。
当時フィウメの機械工場スタビリメント・テクニコ・フィウマーノを経営していたホワイトヘッドは、1864年にルッピスと共同開発契約を結んだ。ホワイトヘッドは爆装艇を水中航走体へ変更し、外部から継続的に操縦する方式を廃して、発射時に与えられた方位と深度を自律的に保つ構成を採用した。両者の共同事業はルッピスの沿岸防衛構想を出発点としたが、実用化された機械装置の設計はホワイトヘッドを中心とする工場内の開発班によって進められた。
1865年から1866年にかけて、渡辺曜は試験航走の記録整理と深度調整機構の校正を担当した。試験では、圧力変化に対する舵の応答、航走中に発生する縦揺れ、および圧縮空気の消費に伴う速度低下が測定された。この作業から得られた記録は、静水圧弁と振り子を組み合わせる深度制御方式の調整に用いられた。
1866年12月、開発班はフィウメ沖でオーストリア海軍関係者に自走式魚雷を公開した。初期の装置は速度と射程が限定されていたものの、水面下を機械力で航走し、外部操縦を受けずに設定深度を維持するという基本構成を備えていた。
機構
船体と推進装置
初期のホワイトヘッド魚雷は葉巻形の金属船体を持ち、前部に炸薬と信管を収容していた。中央部には高圧空気容器が置かれ、後部には機関、舵機構および推進器が配置された。発射後、容器内の圧縮空気が小型往復機関へ供給され、その回転が推進軸へ伝達された。
圧縮空気方式は燃焼用の外気を必要とせず、密閉された水中航走体に適合していた。一方、空気圧は航走につれて低下するため、初期型では速度が一定せず、射程も数百メートルの範囲にとどまった。後期型では空気容器の耐圧が高められ、ピーター・ブラザーフッドが開発した小型多気筒機関の採用によって出力の変動が抑制された。
単一推進器を備えた初期型には、推進軸の反力によって船体が回転しやすいという問題があった。後続型では同軸反転推進器が導入され、前後の推進器を反対方向へ回転させることで反力を相殺した。この方式は姿勢の安定と推進効率の改善に結びつき、他社製魚雷にも採用された。
深度制御
魚雷の深度は、外部の水圧を検出する静水圧弁と、船体の縦傾斜を検出する振り子によって制御された。静水圧弁だけを用いた場合、深度変化に対する修正が遅れて過大となり、魚雷は水面付近と深部の間で周期的に上下した。振り子を併用すると船体姿勢の変化が早い段階で水平舵へ伝えられ、上下動は縮小した。
ホワイトヘッドはこの複合機構を長期間非公開とし、商取引では「秘密」と呼んだ。装置は目標の位置を検知するものではなく、発射前に設定された水圧に対応する深度を機械的に維持した。したがって命中精度は、発射管の方向、発射時の艦体運動、および航走中の方向偏差に左右された。
方向安定
初期型には方位を積極的に修正する装置がなく、船体と垂直舵は発射時の方向を保持するよう固定されていた。推進器の不均衡や機械加工上の誤差は航走距離とともに偏差を拡大させたため、射程の延長には独立した方向制御装置が必要となった。
オーストリア海軍士官ルートヴィヒ・オブリは1890年代に魚雷用ジャイロスコープを実用化した。高速回転するローターを基準として魚雷の方位変化を検出し、その変化に応じて垂直舵を作動させる機構である。ホワイトヘッド社は1896年にオブリ式装置を採用し、これ以後の型では直進精度が向上した。
製造体制と規格化
スタビリメント・テクニコ・フィウマーノでは、技師アンニーバレ・プロクが機関部品の製作調整と工場試験を担当した。工場では各魚雷を水槽および海上で検査し、深度設定に対する舵角と機関の空気消費量を製造記録へ反映した。1870年代の企業再編を経て、フィウメの施設はホワイトヘッド魚雷工場として専門化され、輸出用魚雷と製造設備を各国海軍へ供給した。
イギリス海軍は1869年から試験を行い、1871年に製造権を取得した。その後、ウーリッジ王立工廠で国内生産が開始され、艦載発射管と魚雷の寸法が海軍内で標準化された。他国もフィウメから完成品を購入するか、ホワイトヘッド社との契約に基づいて国内工廠で派生型を製造した。
口径は運用国と年代によって異なり、初期の約356ミリメートル級から、後に広く用いられた約450ミリメートル級へ移行した。大型化によって空気容器と炸薬室の容量が増加し、射程および弾頭重量も拡大した。個別の型式は共通の基本原理を保持しながら、発射管の寸法、機関出力、および搭載艦艇の要件に合わせて設計された。
実戦使用
ホワイトヘッド魚雷が最初に実戦で発射されたのは、1877年5月29日のパコーチャの海戦である。イギリス巡洋艦「シャー」はペルー装甲艦「ワスカル」に対して魚雷を発射したが、魚雷の速度が低く、目標艦が回避したため命中しなかった。
自走式魚雷による最初の艦艇撃沈は、露土戦争中の1878年1月に発生した。ロシア帝国の魚雷艇「チェスマ」と「シノープ」はバトゥミ港内でオスマン帝国の武装汽船「インティバフ」を攻撃し、発射したホワイトヘッド魚雷が船体へ命中した。この戦果は、小型艇が水線下への攻撃によって大型艦艇を破壊し得ることを示し、その後の水雷艇建造と対水雷艇防御の発達に影響した。
19世紀末には魚雷艇だけでなく、巡洋艦と戦艦も固定式または旋回式の発射管を装備した。さらに潜水艦の実用化によって、水中から発射できる自走式魚雷は潜水艦の主要兵装となった。この変化に伴い、魚雷は沿岸防衛用の短距離兵器から、艦隊戦と通商破壊に使用される水中兵器へ移行した。
技術史上の位置
ホワイトヘッド魚雷は、爆薬を水中へ運ぶ既存の発想と、圧縮空気機関による自走能力を一体化した。静水圧弁と振り子による深度制御は、航走体が外部操縦なしに垂直位置を保持するための機械式フィードバック系であり、後の魚雷にも同じ制御原理が継承された。
20世紀に入ると、加熱式圧縮空気機関と内燃機関が航続性能を拡大し、電動機も航跡を抑制する目的で採用された。方向制御はジャイロ式から発展し、第二次世界大戦期には音響誘導や航路設定機構が実用化された。これらの魚雷はホワイトヘッド初期型と性能および誘導方式を異にするが、弾頭、エネルギー源、制御装置および推進部を細長い水中航走体へ統合する基本構成を引き継いでいる。