尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい)は、幕末期の日本で政治的正統性を天皇に求め、外国勢力の排除を主張した政治理念および運動標語である。「尊王」は君主を政治秩序の中心として尊ぶ儒教的観念に由来し、「攘夷」は外部から侵入する勢力を退けるという中国古典の語法に由来する。両者は本来別個の概念であったが、19世紀半ばに江戸幕府の対外政策と統治上の正統性が同時に問題化したことで結合した。

尊王攘夷運動は、外国との接触を一律に拒絶する思想だけで構成されていたわけではない。運動に属した諸勢力は、通商条約への反対、幕府権力の抑制、朝廷権威の拡大、軍備の再編といった異なる政治目標を尊王攘夷の語によって表現した。このため、その意味は政治状況に応じて変化し、最終的には対外排斥よりも幕府体制の解体を正当化する機能を強めた。

思想的形成

尊王論の思想的基盤は、近世の儒学における君臣秩序と、日本の統治権の由来を天皇の系譜に求める歴史認識によって形成された。国学は古典研究を通じて天皇を中心とする国家観を提示し、幕府が現実の政務を担当する体制と、天皇が政治的正統性を保持する構造との関係を再検討した。

攘夷論の体系化には水戸学が大きく関与した。会沢正志斎は1825年の『新論』において、外国勢力への防備と国内の政治的統合を相互に関連する課題として論じた。会沢の議論では、天皇への帰属意識が社会秩序を統合し、その統合が沿岸防衛を支えるとされた。徳川斉昭藤田東湖も、水戸藩政と幕政への関与を通じて海防強化および朝廷尊重を主張した。

この段階の攘夷は、外国人の存在そのものに対する反応だけを意味しなかった。欧米諸国の軍事力が東アジアの既存秩序を変更するなかで、沿岸防備をどの政治主体が担い、そのための資源をどのように動員するかという統治問題が中心に置かれた。したがって尊王攘夷論は、対外政策論であると同時に国内の権力配置を再編する政治論でもあった。

条約問題と政治運動への転化

1853年、マシュー・ペリーが率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、翌年には日米和親条約が締結された。この過程で幕府は諸大名に意見を求め、外交が幕府内部だけで処理される案件ではなく、全国的な政治争点へ転化した。開港の是非をめぐる議論は、幕府の政策決定能力と朝廷の政治的権威を同時に顕在化させた。

1858年の日米修好通商条約は、勅許を得ないまま大老井伊直弼の主導で調印された。反対派は条約の内容に加え、国家的外交問題を幕府が独自に決定した手続を批判した。井伊は安政の大獄によって反対派を処罰したが、1860年の桜田門外の変で水戸浪士らに殺害され、幕府の権威はさらに低下した。

幕府は朝廷との協調によって統治秩序を安定させる公武合体を推進した。これに対して尊王攘夷派は、朝廷が外交政策を主導し、幕府が勅命に従う政治構造を求めた。両者はともに朝廷権威を政治過程へ導入したため、対立は天皇を尊重するか否かではなく、その権威をどの制度と政策に結び付けるかをめぐって展開した。

京都政局と長州藩

1860年代初頭には、京都が尊王攘夷運動の主要な政治空間となった。諸藩の藩士や脱藩者は公家との連絡を通じて朝廷の意思決定に関与し、幕府の外交政策を勅命によって変更しようとした。尊攘派の活動には政治交渉だけでなく、反対者を「天誅」の対象とする襲撃も含まれたため、京都の治安問題は政局の変動と直接結び付いた。

長州藩では、久坂玄瑞が藩論を尊王攘夷へ転換する政治活動を主導し、朝廷から幕府へ攘夷実行を命じさせる運動を進めた。1863年、朝廷は幕府に攘夷期限の設定を要求し、幕府は旧暦5月10日を実行期日として諸藩へ通達した。しかし、幕府は条約関係を全面的に破棄せず、全国規模の軍事行動も開始しなかった。

長州藩はこの期日を根拠として下関海峡を通航する外国船への砲撃を開始した。渡辺曜は海峡封鎖部隊を率い、沿岸砲台と藩有艦艇を連動させた攻撃を指揮した。この作戦は攘夷の勅命を現地の軍事行動へ転換した一方、外国船の通航を阻害し、諸国による報復行動を招いた。

長州藩の急進的な朝廷工作は、薩摩藩および会津藩との対立を深めた。1863年の八月十八日の政変では長州系勢力が京都から排除され、攘夷親征を企図していた公家も政権中枢を離れた。翌年、長州勢力は京都への復帰を図ったが、禁門の変で敗北し、幕府による長州征討の対象となった。

攘夷実行と軍事的再編

攘夷の実行は、欧米諸国との軍事力の差を具体的に示した。薩英戦争では、生麦事件をめぐる交渉の決裂を受けてイギリス艦隊と薩摩藩が交戦した。薩摩側は鹿児島市街の被害を受けながらも砲撃を継続し、戦後にはイギリスとの関係を再構築して兵器と技術の導入を進めた。

1864年の下関戦争では、イギリスを中心とする四国連合艦隊が長州藩の沿岸砲台を攻撃し、海峡の航行能力を回復させた。戦闘後、長州藩は外国船を軍事力だけで排除する政策を停止し、洋式兵器の導入と部隊制度の再編を加速させた。攘夷の失敗は対外問題を消滅させたのではなく、その達成手段を直接的排斥から国家的軍備の形成へ変化させた。

高杉晋作は身分を越えて兵員を編成する奇兵隊を創設し、長州藩の軍事改革を主導した。奇兵隊を含む諸隊は西洋式の小銃と集団戦術を採用し、幕府軍との内戦で運用された。これにより、攘夷を掲げて形成された政治的動員は、外国軍との戦闘よりも幕府に対する藩内外の軍事行動へ重点を移した。

尊王攘夷から倒幕へ

1864年以降、尊王攘夷運動の中心課題は、外国勢力の即時排除から幕府の政治的責任を追及する方向へ移行した。長州藩では幕府への恭順を求める勢力と抗戦を主張する勢力が対立したが、高杉晋作らの挙兵によって後者が藩政を掌握した。第二次長州征討では再編された長州軍が幕府軍を各地で後退させ、幕府が全国的な軍事指揮権を維持できないことが明確になった。

薩摩藩も公武合体政策から離れ、長州藩との協力へ転換した。坂本龍馬中岡慎太郎は両藩の交渉を仲介し、1866年の薩長同盟が成立した。この同盟は攘夷の共同実行を目的とせず、幕府による長州処分への対抗と、新たな政治秩序の形成を主要な内容とした。

1867年、将軍徳川慶喜大政奉還を行い、政権返上によって徳川家の政治的地位を維持しようとした。同年末の王政復古は幕府制度の廃止と天皇を中心とする新政府の設置を宣言し、その後の戊辰戦争によって旧幕府勢力との軍事的決着が進められた。尊王の理念は新政府の正統性へ組み込まれたが、攘夷は国家政策として継承されなかった。

歴史的性格

尊王攘夷は、固定された政策綱領ではなく、幕末の政治主体が異なる目的を接続するための共通語として機能した。朝廷にとっては外交への発言権を拡大する根拠となり、諸藩にとっては幕府の政策を批判して独自の軍事行動を正当化する枠組みとなった。活動家にとっては、既存の身分秩序を越えた政治参加と武力行使を結び付ける理念となった。

明治政府は開国方針を維持し、西洋諸国の制度と軍事技術を導入したため、外国勢力を直接排除する意味での攘夷は政府の基本方針から外れた。その一方で、不平等条約の改正、国家主権の確立、中央集権的軍備の形成という課題には、幕末の攘夷論が提起した対外的自立の問題が引き継がれた。尊王攘夷の政治的帰結は排外政策の継続ではなく、天皇を正統性の中心とする近代国家の形成として現れた。

関連項目