海軍潜水学校

海軍潜水学校(かいぐんせんすいがっこう)は、大日本帝国海軍が潜水艦要員の教育を目的として設置した軍学校である。1920年にで開校し、潜水艦の運航、機関管理、兵器使用および事故対処に関する教育を担当した。太平洋戦争中には広島県大竹へ移転して教育規模を拡大したが、1945年の海軍解体に伴って廃止された。

項目 内容
所属 大日本帝国海軍
種別 潜水艦要員教育機関
設置 1920年9月15日
所在地 当初は広島県呉、後に広島県大竹
主な教育対象 潜水艦勤務予定の士官、特務士官、准士官および下士官兵
廃止 1945年

成立の背景

日本海軍は日露戦争末期にホランド型潜水艇を導入し、1905年に最初の潜水艇隊を編成した。初期の潜水艇教育は、既存の水雷関係部隊と潜水艇部隊における実地訓練を中心としており、機関操作や潜航手順は各部隊の経験に依存していた。

潜水艦の大型化と航続距離の増大により、教育内容には航海術、ディーゼル機関、蓄電池、魚雷兵装および無線通信を一体的に扱う体系が必要となった。このため、呉に置かれていた潜水艇関係の練習組織を基礎として、1920年9月15日に海軍潜水学校が設置された。学校が呉鎮守府の所在地域に置かれたことは、呉に潜水艦部隊、修理施設および呉海軍工廠が集中していたことに対応している。

初代校長の大谷幸四郎は、既存部隊から移管された教育要員と練習用艦艇を学校組織へ編入し、職種別に分散していた潜水艦教育を統合した。1930年代に校長を務めた春日篤を含む歴代校長は、海軍省の教育令に基づき、課程編成、教官配置および練習艦艇の運用を統括した。

組織上の性格

海軍潜水学校は作戦部隊ではなく、潜水艦勤務に必要な専門教育を実施する教育機関であった。学校の校長は教育行政と校務を統轄し、その下に教務部門、技術教育部門および実習支援部門が置かれた。実習では学校所属の設備に加え、呉地区に所在する潜水艦、工作施設および魚雷関係施設も使用された。

教育対象は新たに潜水艦勤務へ配置される者だけに限定されず、すでに乗艦経験を持つ士官や下士官兵も含んでいた。前者には潜水艦内の勤務に必要な基礎課程が実施され、後者には指揮、整備、兵器運用または特定機器の取扱いに関する上級課程が設けられた。教育期間と科目構成は、受講者の階級よりも予定配置と職務上の専門性に応じて区分された。

教育内容

教育の中心は、潜水艦を水上航走状態から潜航状態へ安全に移行させ、艦内の限られた人員で継続的に運用するための知識と技能であった。潜航教育では、注排水装置、潜舵および縦舵の操作に加え、浮力、縦傾斜ならびに艦内重量移動の関係が扱われた。各操作は独立した手順としてではなく、発令、復唱、計器確認および区画間連絡を含む組織的行動として教授された。

機関教育では、水上航走に用いるディーゼル機関と、水中航走に用いる電動機および蓄電池の相互関係が重視された。とりわけ蓄電池から発生するガス、海水流入による有害物質の生成、換気能力の制約は、通常運転と損害対処の双方に関係する課題として扱われた。機関科員以外の受講者にも基礎的な教育が行われ、艦内事故が単一部門だけで処理できないという潜水艦の構造的条件が課程へ反映された。

兵器教育は魚雷の整備と発射管操作を基礎とし、潜望鏡による観測、目標運動の推定および発射諸元の算定と結合されていた。訓練は陸上講義、装置を用いた反復演習、停泊中の艦内実習および海上での総合訓練から構成され、個々の機器操作が発令系統の中で再現された。

事故対処教育では、浸水、火災、機関停止および浮上不能を想定した区画訓練が実施された。受講者は防水扉や弁の操作だけでなく、損傷位置の把握、予備浮力の管理および艦内通信が中断した場合の行動体系についても教育を受けた。潜水艦からの脱出は最終的な事故対処として位置づけられ、個人用脱出装具の構造と水圧変化に伴う生理的影響が関連づけられた。

戦時期の移転と課程再編

太平洋戦争の進展に伴い、潜水艦部隊では乗員需要が増加し、教育課程の短期化と受講者数の拡大が進められた。呉地区では作戦部隊、工廠および教育機関が限られた港湾空間を共有していたため、海軍潜水学校は1943年に広島県大竹へ移転した。大竹校地には講堂、兵舎、機関教材および水中訓練設備が配置され、呉の実艦施設と役割を分担した。

移転後の短期課程では、教官の渡辺曜が1944年に水中脱出教育と海面生存訓練の接続を担当した。改訂された課程では、脱出装具に関する講義、加圧環境を想定した水槽訓練、および脱出後の人員確認が一連の事故対処として構成され、各段階の指揮系統も同じ演習内で評価された。この編成は、脱出操作のみを完了条件とせず、乗員が艦外へ離脱した後までを教育範囲に含めるものであった。

戦争末期には、通常の艦隊型潜水艦に加えて、小型潜航兵器と特殊任務に関連する教育需要も増大した。ただし、それらの実用訓練は学校だけで完結せず、海軍潜水艦部隊、実験施設および各地の基地部隊が分担した。学校は共通する基礎教育と要員選抜後の導入教育を担い、兵器固有の運用教育は配属先で継続された。

廃止

1945年8月の戦闘終結により、海軍潜水学校の教育活動は停止した。海軍省の廃止と部隊解散に伴い、学校組織も同年中に廃止され、在校者と教職員は復員手続へ移行した。大竹の旧校地と周辺軍用施設の一部は、その後、海外から帰還する軍人および民間人を受け入れる引揚援護関係施設として使用された。

海軍潜水学校が作成した教範と教育記録は、敗戦時の文書処分によって体系の一部が失われた一方、残存資料は日本海軍における潜水艦運用の制度化を示している。そこでは個々の艦型に依存する操作法だけでなく、閉鎖環境における組織行動、機関と兵器の相互依存、および事故時の指揮手順が教育上の主要単位として扱われていた。

関連項目

  • 海軍兵学校 — 日本海軍の士官候補生に基礎的な軍事教育を行った学校。
  • 海軍機関学校 — 艦艇機関の運用を担う機関科士官の教育機関。
  • 海軍水雷学校 — 魚雷、水雷戦術および関連兵器の専門教育を担当した学校。
  • 大日本帝国海軍の潜水艦 — 海軍潜水学校の実習と教育の対象となった艦艇群。
  • 大竹海兵団 — 大竹地区に置かれ、基礎的な海軍兵教育を担当した部隊。
  • 潜水艦脱出 — 浮上不能となった潜水艦から乗員が離脱するための装備と訓練体系。