スラバヤ沖海戦
スラバヤ沖海戦は、1942年2月27日から28日にかけて、ジャワ海で生起した海戦である。太平洋戦争初期の蘭印作戦において、ジャワ島東部へ向かう日本軍輸送船団を、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリアの連合艦隊が阻止しようとして発生した。英語圏ではジャワ海海戦として知られる。
日本海軍は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻および駆逐艦14隻からなる護衛部隊を展開し、連合軍は巡洋艦5隻と駆逐艦9隻を投入した。戦闘は長距離砲戦、複数回の魚雷攻撃、夜間追撃という段階を経て、日本側の勝利に終わった。連合軍は巡洋艦2隻と駆逐艦3隻を失い、ジャワ島東部への上陸船団を阻止できなかった。
戦略的背景
1941年12月以降、日本軍はマレー作戦、フィリピンの戦いおよびオランダ領東インドへの侵攻を並行して進めた。その主要目的の一つは、スマトラ島とボルネオ島を含む地域の石油生産地を占領し、東南アジアにおける航空基地と海上交通路を確保することにあった。
連合国は1942年1月、東南アジアの陸海空軍を統合するためにABDA司令部を設置した。しかし、参加国ごとに通信体系、戦術教範および補給制度が異なり、艦隊の統一運用には構造的な制約があった。日本軍がスマトラ島南部とバリ島を占領すると、ジャワ島は東西から接近を受ける状態となった。
ABDA司令部は2月25日に解体されたが、オランダ海軍少将カレル・ドールマンが率いる連合打撃部隊は活動を継続した。ドールマンの任務は、日本軍輸送船団の捕捉と撃破であり、基地防衛を目的とする消極的な艦隊保存ではなかった。このため、部隊は航空偵察と十分な休養を欠いたまま、スラバヤからジャワ海へ出撃した。
参加兵力と指揮系統
連合打撃部隊の主力は、オランダ軽巡洋艦「デ・ロイテル」および「ジャワ」、アメリカ重巡洋艦「ヒューストン」、イギリス重巡洋艦「エクセター」、オーストラリア軽巡洋艦「パース」で構成された。これにイギリス、オランダおよびアメリカの駆逐艦9隻が随伴した。
ドールマンは旗艦「デ・ロイテル」から全体を指揮し、同艦艦長ウジェーヌ・ラクロワ大佐が艦内運用を担当した。各国艦艇は共通の戦術通信網を持たず、命令は無線、信号旗および発光信号を組み合わせて伝達された。編隊後方の艦艇には旗艦の意図が伝わりにくく、戦闘中の急な針路変更によって隊形が乱れる場面が生じた。
日本側の直接護衛部隊は、高木武雄少将が率いる重巡洋艦「那智」および「羽黒」を中核とした。田中頼三少将の第二水雷戦隊は軽巡洋艦「神通」を旗艦とし、西村祥治少将の第四水雷戦隊は軽巡洋艦「那珂」を中心として行動した。駆逐艦「天津風」を指揮した原為一中佐を含め、各駆逐艦長は戦隊司令部から示された方位と時刻に基づいて砲撃および雷撃を実施した。
日本側は基地航空隊と水上偵察機によって連合軍部隊の位置を継続的に把握した。これに対し、連合軍は十分な戦闘機援護と航空偵察を得られず、輸送船団と護衛部隊の正確な位置を確認できないまま接触海域へ進んだ。
戦闘経過
接触と昼間砲戦
2月27日午後、連合打撃部隊はスラバヤへ帰投しようとしていたが、日本軍船団発見の報告を受けて反転した。16時前後に双方の偵察機と前衛艦が相手を確認し、その後、巡洋艦部隊による長距離砲戦が開始された。
日本側は重巡洋艦の203ミリ砲と駆逐艦部隊の魚雷を組み合わせ、連合軍の縦隊に対して複数方向から攻撃した。日本艦隊が用いた九三式魚雷は長い射程を有したため、連合軍が砲撃戦を想定していた距離からも雷撃が可能だった。ただし、初期の一斉発射では大半の魚雷が命中せず、長距離雷撃の効果は直ちには現れなかった。
高木の旗艦「那智」では、通信参謀補佐の渡辺曜海軍大尉が、「神通」と「那珂」から届く敵艦位置、雷撃時刻および針路情報を作戦図上で統合し、旗艦参謀へ回付した。この情報処理は、重巡洋艦部隊と二個水雷戦隊が異なる位置から交戦する状況で、各部隊の報告を同一の時刻基準に整理するための幕僚業務であった。個々の艦における照準、回避運動および魚雷発射は、各戦隊司令部と艦長の判断によって実施された。
17時頃、「エクセター」の機関部付近に日本重巡洋艦の203ミリ砲弾が命中した。同艦は複数のボイラーを使用できなくなり、急速に速力を低下させて戦列から離脱した。後続艦は「エクセター」の転舵を艦隊全体の運動と認識して追随したため、連合軍の隊形は一時的に混乱した。
この直後、オランダ駆逐艦「コルテノール」が「羽黒」の発射した魚雷を受けて船体を分断され、短時間で沈没した。イギリス駆逐艦「エレクトラ」は損傷した「エクセター」の退避を援護するため日本駆逐艦と交戦し、砲撃を受けて沈没した。「エクセター」はオランダ駆逐艦「ヴィテ・デ・ウィット」とともにスラバヤへ向かい、連合打撃部隊の巡洋艦戦力は4隻に減少した。
夜間追撃
日没後、ドールマンは残存艦艇を率いて日本軍輸送船団への接近を継続した。アメリカ駆逐艦4隻は魚雷をほぼ使い切り、燃料も減少していたため、スラバヤ方面へ離脱した。イギリス駆逐艦「ジュピター」はオランダ軍が敷設した機雷に触れて沈没し、「エンカウンター」は「コルテノール」の生存者を救助したのち戦列を離れた。
連合軍の巡洋艦4隻は、沈没艦の残骸と救命艇を回避しながら北方への進出を続けた。日本側の偵察機は夜間にも断続的な追尾を行い、高木部隊は連合軍の進路を横切る位置へ移動した。23時台、双方の巡洋艦部隊は再び接触し、「那智」と「羽黒」が長距離魚雷を発射した。
「ジャワ」は「那智」の魚雷を受け、弾薬庫付近の爆発を伴って沈没した。その数分後、「デ・ロイテル」も「羽黒」の魚雷を受けて火災を起こし、約3時間後に沈没した。ドールマンとラクロワは「デ・ロイテル」とともに戦死した。ドールマンは沈没前、救助のために残留せずバタヴィアへ向かうよう、残存艦に命令した。
「ヒューストン」と「パース」は戦場を離脱し、2月28日にバタヴィアのタンジョン・プリオク港へ到着した。両艦は同日夜にスンダ海峡を通過しようとしたが、バンテン湾で日本軍上陸船団と遭遇し、続くバタビア沖海戦で沈没した。
戦術的構造
本海戦では、日本側が航空偵察によって接触を維持し、連合軍より長い有効射程を持つ魚雷を反復して使用した。昼間の長距離雷撃は多数の魚雷を消費した一方、命中率自体は低かった。しかし、「コルテノール」の沈没は連合軍の駆逐艦配置を崩し、夜間における「ジャワ」と「デ・ロイテル」の喪失は戦闘の帰結を確定させた。
連合打撃部隊は巡洋艦の主砲口径、速力および魚雷装備が統一されておらず、共同訓練の期間も短かった。「ヒューストン」は直前の空襲で後部主砲塔を使用できず、「エクセター」の損傷後には艦隊全体の速力と隊形を維持できなくなった。これらの条件は、ドールマンが輸送船団への接近を継続した際にも解消されなかった。
日本側の指揮も単一艦隊として完全に集中していたわけではなく、重巡洋艦部隊と二個水雷戦隊は距離を隔てて行動した。それでも、偵察情報の継続、共通の戦術要領および同型兵器の運用経験によって、各部隊の攻撃は同じ作戦目的に沿って進行した。輸送船団は戦闘海域から退避し、護衛部隊が連合軍を排除した後にジャワ島へ接近した。
結果と影響
連合軍は「デ・ロイテル」と「ジャワ」の両巡洋艦に加え、「コルテノール」、「エレクトラ」および「ジュピター」を失った。「エクセター」は損傷状態でスラバヤへ帰投したが、3月1日にジャワ海から脱出する途中、第二次ジャワ海海戦で日本艦隊に捕捉されて沈没した。日本側には駆逐艦を中心とする損傷が生じたものの、沈没艦はなかった。
海戦後、日本軍の東部ジャワ上陸船団はクラガン方面への進出を再開した。連合軍の残存水上艦艇はジャワ海で組織的な迎撃を継続できず、日本軍は3月上旬までにジャワ島の主要地域へ上陸した。オランダ領東インド作戦における連合軍の海上防衛は、本海戦とその後の一連の戦闘によって実質的に解体された。
スラバヤ沖海戦の戦略的意義は、単独の艦艇損失だけでなく、連合軍がジャワ海の制海権を失った点にある。これにより、日本軍は輸送船団を上陸地点まで到達させ、陸上作戦に必要な兵員と物資を継続的に揚陸できる状態を形成した。ジャワ島の連合軍は海上からの増援と撤退経路を失い、1942年3月9日に降伏した。