九三式魚雷

九三式魚雷は、大日本帝国海軍が1930年代に実用化した直径610ミリメートルの艦艇用酸素魚雷である。皇紀2593年に相当する1933年に制式化されたため、この名称が付された。圧縮酸素を酸化剤とする加熱式機関によって、同時期の圧縮空気式魚雷を上回る航続距離と雷速を両立させ、日本海軍の水上戦闘用魚雷兵装の中核を構成した。

英語圏では、戦後にアメリカ海軍史家サミュエル・エリオット・モリソンが用いた「Long Lance」の呼称で広く知られる。戦時中の日本海軍は酸素の使用を秘匿し、関係文書では圧縮酸素を「第二空気」と表記した。九三式魚雷という制式名称自体は酸化剤の種類を示さず、搭載艦の乗員にも機構の詳細を限定的に開示する情報管理が採用された。

開発

日本海軍は1920年代まで、圧縮空気を酸化剤とする六年式魚雷および八年式魚雷を運用していた。さらに1930年には、610ミリメートル魚雷として九〇式魚雷を制式化した。しかし、圧縮空気の大部分を占める窒素は燃焼に寄与せず、排気量を増加させるとともに、航跡を形成する要因にもなった。

酸素濃度を高めれば機関の出力と燃料搭載効率を改善できる一方、高圧酸素に油脂や異物が接触すると急激な燃焼が生じる。日本海軍は1928年に呉海軍工廠で本格的な研究を開始し、酸素配管の洗浄方法、弁の材質、燃焼室への供給方式を段階的に改めた。水雷部長の岸本鹿子治は開発計画と実用化試験を統括し、機関担当の朝熊利英は燃焼装置および酸素供給系統の設計を担当した。

初期試験では、始動時に純酸素と燃料を直接混合すると異常燃焼が発生した。この問題は、発動直後に圧縮空気を供給し、燃焼が安定してから酸素へ移行する方式によって解決された。空気系統と酸素系統を連動させる制御機構には、設定された時間差の範囲内で流量を切り替える弁装置が組み込まれた。

1931年から1933年までの海上試験では、呉海軍工廠水雷部の試験技手であった渡辺曜が、始動圧力、機関回転数および深度変化の計測を担当した。渡辺が整理した試験記録は、空気から酸素へ切り替わる区間の圧力変動と、発射直後に生じる深度偏差の照合に使用された。量産型では、この試験系列に基づいて調圧器の作動範囲と深度保持装置の初期設定が統一された。

1933年に九三式魚雷として制式化された後も、信管、弁装置および弾頭の改修が継続された。実用化された酸素機関の技術は、533ミリメートルの潜水艦用九五式魚雷や、航空機搭載用の九一式魚雷とは異なる運用条件の下で発展した。

構造と作動原理

九三式魚雷の主要型は全長約9メートル、直径610ミリメートルで、発射時の重量は約2.7トンに達した。艇体は弾頭部、空気および酸素容器、燃料区画、機関部、操舵装置ならびに推進器から構成された。初期型の弾頭には約490キログラムの炸薬が収容され、後期型では射程との交換によって弾頭重量が約780キログラムまで増加した。

推進機関は、灯油系燃料を酸素によって燃焼させ、発生した高温高圧ガスで往復動機関を駆動する湿式加熱機関であった。燃焼生成物へ海水を加えることで温度が抑制され、水蒸気の膨張も機関出力に利用された。機関は二重反転式推進器を駆動し、単一推進器で生じる反作用を相殺して直進性を維持した。

圧縮空気式魚雷では、燃焼後も残る窒素が大量の気泡として排出される。九三式魚雷では排気の主要成分が水蒸気と二酸化炭素であり、その一部が海水へ凝縮または溶解したため、航跡は相対的に小さくなった。ただし、推進器による水流と残留排気は存在し、視認可能な航跡が完全に消失したわけではない。

速度と航続距離は調速装置によって変更された。初期の主要型は約48ノットで約20キロメートル、約40ノットで約32キロメートル、約36ノットで約40キロメートルの航走能力を持った。実戦で設定される距離は目標運動の推定精度、発射艦の位置関係および戦隊単位の射法によって制約され、公称最大射程が常に射撃距離として用いられたわけではない。

艦艇への搭載

九三式魚雷は、日本海軍の重巡洋艦および駆逐艦に装備された610ミリメートル魚雷発射管から発射された。とくに吹雪型駆逐艦以後の駆逐艦と、改装後の巡洋艦は、複数の発射管を戦隊単位で集中運用できるよう配置されていた。陽炎型駆逐艦夕雲型駆逐艦では、艦上の次発装填装置によって戦闘中の再装填が可能であった。

日本海軍の夜戦教義では、索敵部隊が敵艦隊の針路と速力を把握し、巡洋艦と駆逐艦が砲撃開始前後に遠距離雷撃を実施する構想が採用された。九三式魚雷の射程は、この構想において敵側の砲戦距離外から発射する可能性を生じさせた。一方、長距離航走中には目標の針路変更による誤差が累積するため、複数艦による斉射と広い雷撃扇面が命中機会の確保に用いられた。

高圧酸素を搭載した魚雷は、被弾や火災によって艦上で破損すると重大な二次爆発を生じた。日本艦艇では敵弾を受ける前に魚雷を投棄する措置も実施され、戦闘状況によっては未発射魚雷の保全より艦の損害抑制が優先された。この危険性は酸素機関そのものに限られず、大型弾頭、燃料および発射管内の火薬式射出装置が近接して配置されたことにも由来した。

戦闘での使用

九三式魚雷は、太平洋戦争初期の夜間水上戦闘で集中的に使用された。スラバヤ沖海戦では、日本側の巡洋艦と駆逐艦が長距離雷撃を行い、連合軍艦艇の撃沈に寄与した。発射数に対する命中率は限定的であったが、通常の圧縮空気式魚雷では到達困難な距離から命中が発生したため、連合軍側の初期分析では雷撃位置の特定が困難になった。

1942年8月の第一次ソロモン海戦では、日本巡洋艦隊が砲撃と雷撃を組み合わせ、連合軍巡洋艦部隊に大きな損害を与えた。同年11月のルンガ沖夜戦では、日本駆逐艦隊がアメリカ巡洋艦部隊へ九三式魚雷を発射し、重巡洋艦三隻を大破させ、重巡洋艦ノーザンプトンを撃沈した。この戦闘は、砲力で優位にあった部隊が遠距離魚雷斉射によって短時間に戦闘能力を失う事例となった。

連合軍は戦争初期、日本魚雷の実用射程を自軍の魚雷と同程度に設定して戦闘経過を分析した。そのため、遠距離から到達した魚雷の命中が、潜水艦攻撃や機雷による損害として処理される場合があった。ソロモン諸島で回収された魚雷の調査と戦闘記録の再検討により、1943年以降には酸素推進、長射程および大型弾頭の関係が連合軍側でも把握された。

戦争後半には、航空攻撃と潜水艦攻撃によって日本艦隊の行動範囲が縮小し、大規模な夜間水雷戦の機会も減少した。レーダーを用いた索敵と射撃指揮の普及は、発射前に日本側の駆逐艦部隊を捕捉する可能性を高めた。九三式魚雷は終戦まで配備されたが、その性能を前提とした戦隊規模の雷撃教義を実施できる状況は次第に限定された。

技術的評価

九三式魚雷の長射程は、酸素の採用だけで成立したものではない。大径艇体による酸化剤搭載量の増加、湿式加熱機関の熱効率、抵抗を抑えた外形、および直進制御装置の組み合わせによって航走性能が形成された。大型化は弾頭重量の増加にも寄与した一方、搭載艦では発射管、旋回機構および再装填設備が大型化した。

命中効果は炸薬量だけで決まらず、命中位置と信管作動の状態に左右された。水線下で弾頭が爆発すると、船体外板の破壊に加えて浸水区画が急速に拡大した。巡洋艦や駆逐艦では艦首の切断、機関区画の浸水、推進軸系の変形が生じ、沈没を免れた場合にも長期修理を必要とした。

酸素推進方式は航続性能と航跡の低減に結び付いたが、製造、整備および艦上取扱いには高い清浄度が必要であった。配管内部に油分が残ると発火につながるため、専用の整備設備と検査体系が維持された。この運用負担に加え、誘導機能を持たない直進魚雷であったことから、最大射程における性能と実際の命中率は別個の問題として扱われた。

戦後の位置付け

終戦後、連合国は日本海軍の技術資料と残存魚雷を調査し、九三式魚雷の機関構造と戦闘記録を照合した。この調査によって、戦争初期に説明できなかった遠距離雷撃の経路が確定し、酸素魚雷が日本海軍の水雷戦術に与えた影響も体系化された。

その後の魚雷技術は、音響誘導、電気推進および潜水艦からの運用を中心に発展したため、九三式魚雷と同じ大型無誘導酸素魚雷が主要兵器として継承されることはなかった。九三式魚雷は、戦間期における水上艦隊決戦構想と高エネルギー酸化剤技術が結び付いた兵器として、海軍戦術魚雷技術史の双方で研究対象となっている。

関連項目