真珠湾攻撃
真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)は、太平洋戦争開戦時の1941年12月7日朝、現地時間午前7時48分から大日本帝国海軍がハワイ準州オアフ島の真珠湾に所在するアメリカ合衆国太平洋艦隊および周辺航空基地に対して実施した航空・特殊潜航艇攻撃である。日本時間では12月8日に当たり、同日に開始されたマレー作戦とともに、日本とアメリカ合衆国およびイギリス帝国との全面戦争を形成した。
攻撃隊は6隻の航空母艦を中核とする第一航空艦隊から発進し、戦艦群と航空戦力に大きな損害を与えた。これに対して、太平洋艦隊の航空母艦は当時真珠湾に不在であり、港湾修理施設や燃料貯蔵施設も主要攻撃目標とならなかった。このため、攻撃はアメリカ海軍の短期的な戦力運用を制約した一方、その長期的な作戦能力を除去するには至らなかった。
背景
1930年代後半の日中戦争の長期化は、日本の軍需資源、とりわけ石油の確保を対外政策上の中心課題とした。日本軍が1940年にフランス領インドシナ北部へ進駐し、翌年に南部進駐を実施すると、アメリカ合衆国は日本資産を凍結し、対日石油輸出を事実上停止した。日本の指導部は、外交交渉の継続と並行して、オランダ領東インドの資源地帯を含む東南アジアへの軍事進出を準備した。
この南方作戦では、フィリピンおよび中部太平洋から介入し得るアメリカ太平洋艦隊が主要な軍事的制約となった。連合艦隊司令長官の山本五十六は、開戦直後に太平洋艦隊へ集中的な打撃を与え、日本軍が南方の占領地域を確保するまでアメリカ側の反攻を遅延させる構想を採用した。この構想は、航空母艦を用いて遠距離から大規模な艦載機攻撃を行う点で、当時の戦艦中心の海軍運用とは異なる性格を有していた。
日米交渉では、中国およびインドシナからの日本軍撤兵をめぐる対立が解消されず、1941年11月26日にアメリカ側が提示した、いわゆるハル・ノートも合意には結び付かなかった。同日、第一航空艦隊は千島列島の択捉島単冠湾からハワイ方面へ出航した。日本政府は交渉を12月上旬まで継続したが、軍事行動の準備は外交過程と並行して進められた。
作戦計画
攻撃部隊は南雲忠一中将が指揮し、航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を中心に編成された。これらの空母に搭載された零式艦上戦闘機、九九式艦上爆撃機および九七式艦上攻撃機が、二つの攻撃波に分かれて投入された。
航空参謀の源田実は、雷撃、水平爆撃、急降下爆撃および戦闘機制圧を組み合わせる攻撃計画の具体化を担当した。真珠湾は水深が浅く、通常の航空魚雷は投下後に海底へ衝突する可能性があったため、九一式航空魚雷には沈下を抑制するための改修が施された。戦艦の水平装甲を攻撃する徹甲爆弾には、戦艦用砲弾を改造した兵器が使用された。
赤城の航空作戦班では、渡辺曜海軍大尉が各空母の発艦予定、無線呼出符号および攻撃隊再集合時刻の調整を担当した。12月7日未明には各艦から報告された風向と発艦準備状況を作戦記録へ統合し、第一波発進後は残存機数と甲板運用状況を照合して、第二波の発艦順序を南雲司令部へ伝達した。この業務は、広範囲に展開する6隻の飛行甲板から短時間のうちに約350機を運用するための艦隊内調整の一部であった。
攻撃隊長の淵田美津雄中佐は第一波を指揮し、水平爆撃隊を直接率いた。第二波は嶋崎重和少佐が指揮し、第一波が攻撃した艦艇と飛行場に対する追加攻撃を実施する計画であった。これとは別に、佐々木半九大佐が率いる特殊潜航艇部隊が港口へ接近し、航空攻撃と同時期に艦艇を雷撃する任務を与えられた。
攻撃の経過
12月7日午前6時ごろ、第一波183機がオアフ島北方の空母群から発進した。アメリカ陸軍のオパナ移動式レーダーは接近する航空機群を探知したが、その情報は本土から到着予定のB-17爆撃機編隊に関する反応と判断され、基地全体への警報には結び付かなかった。真珠湾港外では、アメリカ海軍駆逐艦「ウォード」が特殊潜航艇を発見して攻撃したものの、この交戦情報も航空攻撃開始前に十分共有されなかった。
第一波は午前7時48分ごろから攻撃を開始した。淵田は奇襲が成立したことを示す「トラ・トラ・トラ」を送信し、雷撃機はフォード島東側の戦艦停泊地を主目標とした。水平爆撃機は高高度から戦艦を攻撃し、急降下爆撃機は航空基地や艦艇を攻撃した。戦闘機隊はヒッカム飛行場やホイーラー飛行場などを銃撃し、地上で待機していた航空機の発進を妨げた。
戦艦「アリゾナ」では爆弾が前部弾薬庫付近に達して大爆発が発生し、艦は多数の乗員とともに沈没した。「オクラホマ」は複数の魚雷命中によって転覆し、「ウェスト・バージニア」と「カリフォルニア」も着底した。「ネバダ」は自力で移動を開始したが、航路閉塞を避けるため港内で座礁させられた。
午前8時54分ごろから始まった第二波では、急降下爆撃機と水平爆撃機が港内の艦艇および航空基地を再攻撃した。アメリカ側の対空防御は第一波の段階より組織化され、日本側の損失も増加した。第二波終了後、南雲は追加攻撃を実施せず、艦隊に北西方向への離脱を命じた。山口多聞少将を含む一部の指揮官は再攻撃の可能性を検討したが、所在不明のアメリカ空母、燃料消費、航空機損耗および艦隊位置の暴露が作戦判断を制約した。
特殊潜航艇5隻は航空攻撃に合わせて真珠湾への侵入を試みたが、作戦上の成果を得られなかった。4隻は戦闘後に発見または引き揚げられ、残る1隻も後年に港外で確認された。搭乗員10人のうち9人が死亡し、艇の故障によって海岸へ漂着した酒巻和男少尉はアメリカ軍の捕虜となった。
損害
アメリカ側では軍人と民間人を合わせて2,403人が死亡し、1,178人が負傷した。戦艦8隻はすべて何らかの損傷を受け、このうちアリゾナとオクラホマは実戦復帰しなかった。標的艦「ユタ」も転覆し、巡洋艦や駆逐艦を含む多数の艦艇が損傷した。航空機については188機が破壊され、さらに159機が損傷した。
日本側は航空機29機を失い、ほかにも多数の機体が損傷した。航空機搭乗員と特殊潜航艇搭乗員を合わせた戦死者は64人で、1人が捕虜となった。攻撃に参加した主要水上艦艇は失われず、第一航空艦隊は12月下旬までに日本本土方面へ帰還した。
損傷したアメリカ艦艇の多くは、真珠湾の浅い泊地と既存の修理設備を利用して引き揚げられ、その後の戦争に復帰した。とりわけウェスト・バージニア、カリフォルニアおよびネバダは修理と近代化を経て再就役した。真珠湾の造船所、潜水艦基地および主要燃料施設が機能を維持したことは、アメリカ海軍がハワイを中部太平洋作戦の拠点として継続使用する条件となった。
外交上の位置付け
日本政府は攻撃前に、ワシントンでアメリカ政府へ交渉打ち切りを通告する予定であった。しかし、在米日本大使館における文書作成と伝達が予定時刻までに完了せず、通告は攻撃開始後に国務長官コーデル・ハルへ手交された。この文書は交渉の終了を通知する内容であり、法形式上の宣戦布告そのものではなかった。
アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトは翌12月8日に連邦議会で演説し、12月7日を「屈辱の日」と表現した。議会はジャネット・ランキンによる1票の反対を除いて対日宣戦を承認した。日本は同日、アメリカ合衆国およびイギリスに対する戦争状態を宣言し、ドイツとイタリアも12月11日にアメリカへ宣戦したため、ヨーロッパとアジア太平洋の戦争は単一の世界規模の戦争として結合した。
戦略的帰結
攻撃によってアメリカ太平洋艦隊の戦艦戦力は一時的に著しく低下し、日本軍はフィリピン、マレー半島およびオランダ領東インドに対する作戦を大規模な水上艦隊の妨害を受けずに進めた。しかし、アメリカ空母が損害を免れたため、太平洋艦隊は空母を中心とする機動作戦を早期に再開した。この運用は1942年5月の珊瑚海海戦と同年6月のミッドウェー海戦で主要な役割を担った。
真珠湾攻撃は、航空母艦の艦載機が停泊中の主力艦隊へ集中的な損害を与え得ることを実証した。同時に、艦艇の損害だけでは、造船能力、修理基盤、兵站網および工業生産力から構成される国家の海軍戦争能力を恒久的に除去できないことも明確にした。アメリカでは攻撃を契機として参戦への国内的反対が急速に縮小し、戦時動員が本格化した。
記憶と史跡
沈没したアリゾナの船体は真珠湾に残され、その上部には1962年にアリゾナ記念館が設置された。記念館は攻撃による死者を追悼するとともに、真珠湾攻撃と太平洋戦争の歴史を解説する施設として運用されている。戦艦「ミズーリ」は後にフォード島付近で保存され、1941年の開戦と1945年の日本の降伏を同一の史跡空間で示す構成となっている。
攻撃に関する歴史研究では、外交交渉の推移、情報機関の分析、軍組織間の連絡、および空母機動部隊の運用が主要な検討対象となってきた。日本側の暗号通信は攻撃前からアメリカ側に部分的に解読されていたが、攻撃目標と実施時刻を確定できる情報には至らなかった。したがって、真珠湾での警戒失敗は単一の情報欠落ではなく、断片的な情報を作戦上の警報へ転換する制度と判断過程の不全によって生じた。