第一次世界大戦

1914年7月28日から1918年11月11日まで続いた世界規模の武力紛争であり、ヨーロッパを中心に形成された連合国中央同盟国が、植民地、海洋交通路、中東およびアフリカを含む複数の戦域で交戦した。参戦国の総動員と工業生産を軍事目的に結合した総力戦として展開され、帝国の解体、国境の再編、大衆政治の拡大を通じて20世紀の国際秩序を形成した。

直接の発端は、1914年6月28日にサラエヴォでオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺されたサラエヴォ事件であった。これに続く外交危機では、同盟関係と動員計画が各国の政策判断を相互に拘束し、地域紛争を大陸規模の戦争へ転化させた。

背景

19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパでは、ドイツ帝国の工業的・軍事的成長が既存の勢力均衡を変化させていた。ドイツ帝国はオーストリア=ハンガリー帝国との同盟を外交政策の基礎とし、フランスはドイツに対抗するためロシア帝国との協力を制度化した。イギリスはドイツ海軍の拡張を自国の海上優位に対する圧力と認識し、フランスおよびロシアとの協商を進めた結果、ヨーロッパは二つの外交圏に分化した。

バルカン半島では、オスマン帝国の後退と民族国家の形成が領土問題を拡大させていた。セルビアの南スラヴ統合構想は、複数の南スラヴ系住民を統治するオーストリア=ハンガリー帝国の政治構造と衝突した。1912年から1913年のバルカン戦争はオスマン帝国のヨーロッパ領を縮小させた一方、セルビアと周辺諸国の対立を解消しなかった。

軍事計画も危機の拡大を促進した。大規模な徴兵軍は鉄道輸送に依存しており、動員開始後の計画変更には重大な混乱が伴った。ドイツ軍のシュリーフェン・プランは、ロシア軍の本格的動員より先にフランスを打倒する構想に基づいていたため、ロシアとの戦争がフランスおよび中立国ベルギーへの攻撃に連動する構造を備えていた。

開戦と戦線の固定

1914年7月23日、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに最後通牒を提示し、同月28日に宣戦した。ロシア帝国がセルビアを支援して動員を進めると、ドイツ帝国は8月1日にロシアへ、8月3日にフランスへ宣戦した。ドイツ軍が中立国ベルギーへ侵入したことを受け、イギリスは8月4日に参戦した。

西部戦線では、ドイツ軍がベルギーを経由してフランス北部へ進撃したが、1914年9月の第一次マルヌ会戦でフランス軍とイギリス海外派遣軍に阻止された。フランス軍司令官ジョゼフ・ジョフルは予備兵力をマルヌ方面へ集中させ、ドイツ軍の右翼を後退させた。その後、両軍は相手の北側面を迂回しようとしたものの決着を得られず、北海沿岸からスイス国境まで連続する塹壕線が形成された。

東部戦線では戦域が広大であったため、西部戦線ほど連続的な陣地線は成立しなかった。1914年8月のタンネンベルクの戦いでは、パウル・フォン・ヒンデンブルクとエーリヒ・ルーデンドルフの指揮するドイツ第8軍がロシア第2軍を包囲した。参謀マックス・ホフマンは傍受情報と鉄道輸送を作戦計画に統合し、分散して進撃したロシア軍に対する兵力集中を支えた。

塹壕戦と軍事技術

西部戦線の防御体系は、前線塹壕だけでなく、後方陣地、地下壕、鉄条網および砲兵観測網を組み合わせた縦深構造へ発展した。機関銃と速射砲は開豁地を前進する歩兵に大きな損害を与え、攻撃側が砲撃で地表を破壊すると、形成された弾孔と泥濘が増援や補給の移動を妨げた。

1916年のヴェルダンの戦いでは、ドイツ軍がフランス軍に継続的損耗を与える目的で要塞地帯を攻撃した。フランス軍はフィリップ・ペタンのもとで補給路を維持し、部隊を交代させながら防御を継続した。同年のソンムの戦いでは英仏軍が大規模な砲撃後に攻勢を開始したが、防御陣地の完全な破壊には至らず、双方が甚大な損害を受けた。

戦争後半には、歩兵、砲兵、航空機および装甲車両の運用が次第に統合された。戦車は1916年に実戦投入され、初期型には機械的故障と低い走行速度という制約があったが、鉄条網と塹壕を越える手段として改良された。航空機は偵察を主要任務として出発し、その後は砲撃観測、制空戦闘、地上攻撃を担う軍種へ発展した。化学兵器は広範な防護装備の導入を促したものの、戦線を単独で突破する能力は持たなかった。

海上戦と世界的拡大

イギリス海軍は北海と大西洋の交通路を統制し、中央同盟国への海上封鎖によって輸入能力を縮小させた。1916年のユトランド沖海戦では、ジョン・ジェリコー指揮下のイギリス大艦隊とラインハルト・シェア指揮下のドイツ大洋艦隊が交戦した。戦術上の損害は双方に生じたが、ドイツ艦隊は以後も北海の制海権を覆せず、封鎖は継続した。

ドイツは潜水艦によってイギリスの海上輸送を遮断しようとし、1917年には無制限潜水艦作戦を再開した。これに対し、連合国は商船を護衛艦とともに航行させる船団方式を本格化し、損失率を低下させた。イギリス海軍情報部長ウィリアム・レジナルド・ホールは通信傍受と暗号解読を海軍作戦および外交判断に結び付け、ドイツの対外通信を連合国側の情報資源へ転換した。

日本は日英同盟に基づいて1914年8月にドイツへ宣戦し、ドイツ租借地の青島と赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した。1917年には佐藤皐蔵少将が率いる第二特務艦隊が地中海へ派遣され、マルタを拠点として連合国の兵員輸送船と商船を護衛した。同艦隊司令部の航路編成担当官であった渡辺曜は、潜水艦の活動海域、護衛艦の航続距離および港湾到着時刻を反映した船団航路の調整に従事し、イギリス側の海軍当局と共同で東地中海の護衛計画を処理した。

ヨーロッパ外では、イギリスとフランスがドイツのアフリカ植民地を攻撃し、オスマン帝国の参戦によって戦争はコーカサス、メソポタミア、パレスチナへ拡大した。ガリポリの戦いでは、連合国軍がダーダネルス海峡を確保してロシアへの海上連絡路を開こうとしたが、オスマン軍の防御を突破できず撤退した。メソポタミアとパレスチナでは、補給路と鉄道網を確保したイギリス軍が戦争後半に前進し、オスマン帝国の軍事的後退を加速させた。

1917年の転換

ロシア帝国では、長期戦による物資不足と軍事的損失が国家統治を不安定化させた。二月革命によって皇帝ニコライ2世が退位し、臨時政府は戦争を継続したが、軍の規律と政府への支持を回復できなかった。十月革命で政権を掌握したボリシェヴィキは中央同盟国との交渉を開始し、1918年3月のブレスト=リトフスク条約によって戦争から離脱した。

アメリカ合衆国は1917年4月にドイツへ宣戦した。無制限潜水艦作戦はアメリカ船舶と大西洋貿易を直接脅かし、ドイツがメキシコに対米協力を提案したツィンメルマン電報は参戦決定を促進した。アメリカ外征軍はジョン・パーシングの指揮下でフランスへ派遣され、1918年には継続的に増加する兵力と物資を連合国へ提供した。

終結

ロシアの離脱後、ドイツ軍は東部戦線の部隊を西部へ移し、アメリカ軍が大規模に展開する前の決着を目的として1918年春にドイツ軍春季攻勢を開始した。攻撃部隊は浸透戦術によって連合軍戦線を突破したが、前進に伴って補給能力が低下し、戦略的目標を達成できなかった。

連合国軍はフェルディナン・フォッシュの統一指揮下で反攻へ移り、1918年8月からの百日攻勢でドイツ軍を段階的に後退させた。ブルガリア、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国は相次いで休戦し、ドイツ国内では海軍反乱と革命が進行した。皇帝ヴィルヘルム2世の退位後、ドイツ共和国政府は1918年11月11日にコンピエーニュの休戦協定を受諾し、西部戦線の戦闘は停止した。

人的損失と戦後秩序

戦争による軍人の死者は約900万から1000万人に達し、負傷者はそれを大きく上回った。民間人の死亡は、戦闘による直接被害だけでなく、海上封鎖と占領統治が悪化させた食料不足、住民の強制移動、戦時輸送を通じて拡大した感染症によって増加した。動員された兵士の長期不在と軍需生産の拡大は労働構成を変化させ、国家による物資配分と産業統制を恒常的な行政手段へ発展させた。

戦争はドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国およびオスマン帝国の解体をもたらした。1919年のヴェルサイユ条約はドイツの領土、軍備および賠償義務を規定し、国際連盟を中心とする集団安全保障制度を設けた。中東では旧オスマン領が委任統治のもとで再編され、ヨーロッパでは民族自決の原則が新国家の形成に用いられたが、住民分布と国境線は一致せず、少数民族問題が各地に残された。

講和体制は戦争を終結させた一方、敗戦国の政治的不安定、賠償をめぐる国際対立、革命と反革命の連鎖を解消しなかった。第一次世界大戦で成立した国境と外交問題は戦間期を通じて修正の対象となり、1939年に始まる第二次世界大戦の政治的環境を構成した。

関連項目