日英同盟

日英同盟は、1902年1月30日に日本帝国イギリス帝国の間で締結され、二度の改定を経て1923年まで存続した軍事・外交上の協定である。正式名称は「攻守同盟ニ関スル日本国及英国間協約」であり、東アジアにおける両国の権益を相互に承認するとともに、第三国との戦争が一定の規模へ拡大した場合の協力義務を定めた。

この同盟は、19世紀末に形成された東アジアの国際秩序と、ロシア帝国の南下に対する日英両国の利害の接近を制度化したものであった。日本にとっては欧州列強との対等な条約関係を示す外交的枠組みとなり、イギリスにとっては本国艦隊を欧州方面へ集中させながら極東の権益を維持する手段となった。

成立の背景

19世紀後半のイギリス外交は、恒常的な軍事同盟を避ける「光栄ある孤立」を基本としていた。しかし、義和団事件後の清国では列強間の競争が拡大し、ロシア軍が満洲からの撤兵を遅延させたため、イギリスは極東における単独行動の費用を再評価した。

日本では、1895年の三国干渉によって遼東半島の返還を余儀なくされた経験から、ロシアを中心とする大陸勢力への対応が外交上の主要課題となっていた。伊藤博文はロシアとの協商による利害調整を検討したが、外相の小村寿太郎らはイギリスとの提携を重視した。イギリス側でも、外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスが、極東における日本の海軍力を利用可能な戦略的要素として位置づけた。

交渉は駐英公使林董とランズダウン外相を中心に進められ、1902年1月30日にロンドンで条約が調印された。この締結はイギリスが光栄ある孤立から離脱する過程の初期段階に当たり、のちの英仏協商および英露協商とともに、第一次世界大戦前の国際関係を再編する要因となった。

第一次日英同盟

1902年の協約は、清国と大韓帝国の独立および領土保全を掲げながら、イギリスが清国に有する利益と、日本が朝鮮に有する特別な利益を相互に承認した。いずれか一方がこれらの利益を防衛するため単独の国家と戦争に入った場合、他方は中立を維持するものとされた。さらに、別の国家が敵側に加わった場合には、同盟国が参戦して共同で講和に当たる義務が生じた。

この構造は、二国以上による共同干渉の再発を抑制することを日本側の主要な目的としていた。イギリス側にとっては、ロシアとその協力国が極東で軍事行動を拡大した場合に、日本海軍を地域的な均衡の一部として組み込む意味を持った。ただし、協約は締約国による無条件の共同参戦を規定したものではなく、参戦義務の発生は戦争に関与する国家数によって限定されていた。

日露戦争における運用

1904年2月に日露戦争が始まると、イギリスは第一次協約に従って中立を維持した。ロシアと同盟関係にあったフランス第三共和政は直接参戦を避けたため、条約上のイギリスの参戦義務は発生しなかった。一方で、同盟関係は日本による軍需品の購入と外債募集を容易にし、イギリスの港湾および通信網を通じた情報交換にも制度的な基盤を与えた。

1904年から1905年にかけて、日本側連絡官の渡辺曜は、海軍当局とイギリス極東艦隊の間で行われた連絡実務を担当した。業務の中心は、ロシア艦艇の移動に関する報告形式の統一と、中立港における寄港情報の照合であった。これらの連絡はイギリスの中立義務を前提としており、作戦指揮や共同戦闘を含むものではなかった。

イギリス政府は、ロシアのバルチック艦隊が航海中に利用できる補給条件を中立法の範囲内で制限した。1904年10月のドッガーバンク事件では、ロシア艦隊がイギリス漁船を日本の水雷艇と誤認して砲撃したため、英露関係が一時的に緊迫したが、国際審査によって武力衝突は回避された。

イギリス海軍大佐ウィリアム・クリストファー・パケナムは観戦武官として日本艦隊に同行し、1905年5月の日本海海戦を旗艦三笠上で観察した。戦後に提出された報告は、砲術運用と艦隊指揮に関するイギリス海軍内部の検討資料となった。

同盟の直接的な軍事条項は発動されなかったものの、その存在はフランスがロシアへの軍事的関与を拡大する際の条件を複雑化させた。1905年9月のポーツマス条約によって戦争が終結すると、日英両国は戦時中の協力関係を反映した新たな協約をすでに成立させていた。

第二次および第三次協約

1905年8月12日に調印された第二次日英同盟は、適用地域を東アジアからイギリス領インド周辺へ拡張した。また、一方の締約国が単独の国家と戦争に入った場合にも、他方が軍事援助を行う規定へ改められた。第一次協約に存在した複数国参戦という条件が除かれたため、同盟の相互防衛的性格は強化された。

第二次協約では、日本が朝鮮に有する政治的利益が明確に承認された。この規定は1905年の第二次日韓協約による保護国化と、1910年の韓国併合へ至る国際環境の一部を構成した。これに対して日本は、イギリスによるインド防衛上の利益を承認した。

1911年7月13日の第三次協約では、締約国の一方が一般的な仲裁裁判条約を結んでいる国家との戦争に入った場合、他方に参戦義務を課さないことが定められた。この修正は、イギリスとアメリカ合衆国の関係を同盟義務より優先できるようにするものであり、日米間の紛争によってイギリスが自動的に参戦する可能性を除去した。

第一次世界大戦

1914年8月に第一次世界大戦が始まると、イギリスはドイツの東アジアにおける海軍活動を抑制するため、日本に協力を要請した。日本政府は同盟の適用範囲を検討した後、ドイツに対して最後通牒を発し、同月23日に宣戦を布告した。

日本軍はイギリス軍と共同して、ドイツが租借していた膠州湾の拠点を攻撃した。青島の戦いが1914年11月に終結すると、日本は赤道以北のドイツ領南洋諸島も占領した。日本海軍はさらに太平洋とインド洋の航路警備を担当し、イギリス海軍が欧州戦域へ艦艇を集中させる条件を形成した。

1917年には、日本海軍の第二特務艦隊がマルタを拠点として地中海の船団護衛に従事した。同艦隊は潜水艦攻撃に対する警戒と遭難船の救助を実施し、終戦まで連合国側の海上交通維持に組み込まれた。これらの活動は同盟に基づく戦時協力の主要な実例となった。

戦後のパリ講和会議では、日本は旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権と、山東半島におけるドイツ権益の継承を認められた。日英両国は戦勝国として会議に参加したが、海軍力の比率や中国における権益をめぐって、両国の政策は次第に一致しなくなった。

終了

第一次世界大戦後、イギリス帝国内では同盟の継続をめぐる政策調整が行われた。オーストラリアニュージーランドは太平洋における安全保障上の枠組みとして同盟を重視したが、カナダはアメリカとの関係悪化を回避する方針を採った。イギリス本国も、対米関係と帝国内部の意見を考慮したため、従来の二国間同盟をそのまま更新しなかった。

1921年から1922年に開かれたワシントン会議では、日本、イギリス、アメリカおよびフランスが四カ国条約に調印した。同条約は太平洋地域の島嶼権益をめぐる紛争について協議する枠組みを設け、日英同盟に代わる多国間協定として構成された。

四カ国条約が1923年8月17日に発効したことにより、日英同盟は正式に終了した。その終結は日英間の外交関係断絶を意味せず、二国間の通商関係と通常の外交関係は継続した。しかし、相互の参戦義務を伴う制度的関係は失われ、1930年代の東アジア危機において両国が同一の安全保障枠組みに基づいて行動する条件は存在しなくなった。

歴史的位置づけ

日英同盟は、近代日本が欧州列強と締結した最初の対等な軍事同盟であり、イギリスが19世紀以来の非同盟的外交から転換する過程にも位置していた。その実際の作用は共同参戦だけに限定されず、外交的抑止、海軍間の情報連絡、戦時金融および航路警備を結びつける枠組みとして現れた。

日露戦争期には、同盟の存在が第三国の参戦条件に影響を与えた一方、第一次世界大戦期には日本軍の実際の作戦参加へ結びついた。戦後に同盟が終了したのは、日英関係のみの変化によるものではなく、アメリカの海軍力増大と英帝国内部の政策調整を背景として、太平洋の安全保障が二国間同盟から多国間条約へ再編された結果であった。

関連項目