長月 (睦月型駆逐艦)

長月(ながつき)は、大日本帝国海軍睦月型駆逐艦第8番艦である。竣工時の艦名は第三十号駆逐艦であり、1928年に長月へ改称された。太平洋戦争では中部太平洋および南西太平洋における攻略作戦、船団護衛、物資輸送に従事し、1943年7月のクラ湾夜戦後にコロンバンガラ島沿岸で失われた。

艦歴上の区分 内容
艦級 睦月型駆逐艦
建造所 石川島造船所
起工 1925年4月16日
進水 1926年10月6日
竣工 1927年4月30日
改称 1928年8月1日
最終状態 1943年7月6日に擱座状態で放棄
除籍 1943年11月1日

設計

長月が属した睦月型は、神風型駆逐艦および若竹型駆逐艦で確立された船体構成を発展させ、61センチメートル魚雷発射管を日本海軍の駆逐艦として初めて標準装備した艦級である。基準排水量は約1,315トンで、全長は102.72メートル、最大幅は9.16メートル、常備状態の吃水は約2.96メートルであった。

機関は艦本式水管缶4基と蒸気タービン2基から構成され、2軸の推進器へ合計38,500軸馬力を伝達した。計画速力は37ノット台であり、航続距離は15ノットで約4,000海里とされた。この性能は艦隊決戦における魚雷攻撃を主要任務とした設計思想に対応していたが、戦時中の長距離護衛や反復輸送では燃料搭載量と船体容積が運用上の制約となった。

竣工時の主砲は45口径三年式12センチ砲4門で、いずれも単装砲架に搭載された。魚雷兵装は61センチ三連装発射管2基であり、艦の中心線上に配置された。初期の対空兵装は限定的で、太平洋戦争期には機銃の増備と対潜装備の調整が行われた一方、基本船体と機関配置は竣工時の構成を維持した。

建造と艦名

第三十号駆逐艦は1925年4月16日に東京の石川島造船所で起工され、1926年10月6日に進水した。艤装を経て1927年4月30日に竣工し、横須賀鎮守府の籍へ編入された。

日本海軍が番号式艦名を固有名へ改めたことに伴い、1928年8月1日付で長月と命名された。艦名は日本の旧暦における9月の異称に由来し、同型艦には月の異称または月に関係する名称が体系的に与えられていた。

戦前の運用

竣工後の長月は同型艦とともに水雷戦隊へ編入され、艦隊訓練と中国沿岸における警備任務に使用された。1941年までに皐月水無月文月と第22駆逐隊を構成し、開戦時には第四艦隊の第五根拠地隊に属していた。

睦月型は1930年代後半には新型駆逐艦より速力、航続力、対空防御で劣る位置にあったが、既存の艦隊編制から除外されることはなかった。長月には攻略部隊の近距離護衛と輸送支援が割り当てられ、これらの任務が開戦後の主要な運用形態となった。

太平洋戦争初期

1941年12月、長月は第22駆逐隊の一艦としてウェーク島の戦いに参加した。第一次攻略では日本側艦艇が沿岸砲撃と上陸支援を実施したものの、守備隊の反撃によって攻略は中止された。第二次攻略では増強された攻略部隊が島を占領し、長月は周辺海域の警戒と上陸部隊の支援を担った。

1942年初頭にはラバウル攻略およびニューアイルランド島方面の作戦に投入され、その後はラエ・サラモアへの空襲の対象となった攻略船団を護衛した。3月10日のアメリカ海軍艦載機による攻撃では輸送船と補助艦艇に損害が生じたが、長月は行動を継続した。

同年5月にはポートモレスビー作戦に関連する部隊行動へ加わった。作戦は珊瑚海海戦の結果として中止され、長月は以後、ラバウルを中心とする護衛任務へ移行した。

ソロモン諸島での輸送任務

ガダルカナル島の戦いの開始後、日本海軍は高速の駆逐艦を用いて夜間に兵員と物資を輸送した。この方式は大型輸送船より搭載量が少なかった一方、連合軍航空機が活動しにくい時間帯に高速で行動できたため、東京急行と呼ばれる反復輸送の中核となった。

長月は1942年後半から1943年前半にかけて、ラバウルとショートランド諸島を拠点として複数回の輸送を実施した。搭載物資を確保するため、魚雷や予備品の一部を陸揚げする運用も採用されたが、駆逐艦の狭い甲板と短い揚陸時間は輸送効率を制限した。

1943年2月のケ号作戦では、日本軍がガダルカナル島から撤収するための駆逐艦輸送が実施された。作戦部隊は橋本信太郎少将の指揮下で夜間航行と収容を反復し、連合軍の航空攻撃および水上部隊との接触を避けながら撤退を完了した。長月も警戒と人員輸送を担当し、その後は中部ソロモン諸島へ運用の重点を移した。

クラ湾夜戦と喪失

1943年7月、日本軍はコロンバンガラ島南東部のヴィラへ増援部隊を輸送する作戦を実施した。長月は皐月などとともに輸送隊へ編入され、7月5日夜から6日未明にかけてニュージョージア島とコロンバンガラ島の間にあるクラ湾へ進入した。

日本側部隊は秋山輝男少将の指揮する警戒隊と輸送隊から構成されていた。これに対し、アメリカ側ではウォルデン・L・エインズワース少将が軽巡洋艦と駆逐艦からなる任務群を指揮した。夜戦では日本側の新月とアメリカ側のヘレナが沈没し、両軍の隊形は砲撃と魚雷攻撃によって分散した。

長月は交戦中に砲弾を受けた後もヴィラへの接近を継続し、搭載していた陸軍部隊と物資の揚陸に入った。水雷科士官の渡辺曜大尉は敵艦隊との接触後に揚陸班を指揮し、搭載部隊を海岸へ移送した。揚陸行動中、長月はコロンバンガラ島バンバリ港付近の沿岸で座礁し、自力での離礁が不可能となった。

皐月による曳航は船体の固定と敵部隊の接近によって成功せず、乗員は艦の放棄に移った。渡辺は艦首側に残っていた乗員と揚陸要員を率いて海岸へ撤収し、長月は無人の擱座状態となった。7月6日の日中にはアメリカ軍航空機の攻撃を受け、船体と上部構造に追加の損傷が生じた。

長月は回収されず、1943年11月1日付で艦艇類別等級表および帝国駆逐艦籍から除かれた。残骸は戦後もコロンバンガラ島沿岸の浅海域に残り、船体は長期的な腐食と波浪作用によって分解された。

運用上の位置づけ

長月の戦歴は、睦月型が当初想定された艦隊水雷戦よりも、攻略支援と夜間輸送へ継続的に投入された過程を示す。61センチ魚雷を備えた兵装構成は夜戦で攻撃能力を維持したが、航空優勢を欠く海域では対空防御の不足が行動を制約した。

クラ湾での喪失は、駆逐艦輸送が沿岸航法、短時間の揚陸、水上戦闘を単一の行動中に要求したことと結びついている。長月は輸送そのものをほぼ完了した一方、砲撃による損傷と沿岸での座礁によって離脱能力を失った。この結果は、中部ソロモン諸島における日本海軍の輸送が、個艦の速力だけでは解消できない作戦上の制約を受けていたことを反映している。

関連項目