睦月型駆逐艦
睦月型駆逐艦は、1920年代に大日本帝国海軍が建造した一等駆逐艦の艦級である。計画時には第十九号型駆逐艦と呼ばれ、1925年から1927年にかけて12隻が竣工した。船体と機関の基本構成は峯風型駆逐艦および神風型駆逐艦_(2代)から継承された一方、主兵装には日本海軍の駆逐艦として初めて61センチ魚雷発射管が採用された。
就役当初の各艦は艦番号によって識別されたが、1928年8月の命名制度改正により固有艦名へ移行した。睦月型は1930年代を通じて水雷戦隊の構成艦となり、日中戦争では中国沿岸における封鎖、警戒および上陸支援に従事した。太平洋戦争では当初想定された艦隊決戦用の水雷戦よりも、輸送船団の護衛、島嶼部への高速輸送、対潜哨戒および撤収作戦に投入され、1944年末までに全艦が失われた。
| 要目 | 竣工時の設計値 |
|---|---|
| 基準排水量 | 約1,315英トン |
| 全長 | 102.72メートル |
| 最大幅 | 9.16メートル |
| 吃水 | 約2.96メートル |
| 主機 | 艦本式オール・ギヤード蒸気タービン2基 |
| ボイラー | ロ号艦本式重油専焼缶4基 |
| 軸数 | 2軸 |
| 計画出力 | 38,500軸馬力 |
| 計画速力 | 37.25ノット |
| 航続距離 | 15ノットで約4,000海里 |
| 乗員 | 約150名 |
| 主砲 | 45口径三年式12センチ砲4門 |
| 魚雷兵装 | 61センチ三連装魚雷発射管2基 |
| その他 | 機雷18個および掃海用装備 |
設計
船体と機関
睦月型の船体は、前級に相当する神風型の長船首楼型配置を基礎としていた。高い船首楼は艦首部の乾舷を確保し、その後方に艦橋、前部煙突、魚雷発射管、後部煙突および後部兵装を配置する構成であった。船体寸法は神風型と大きく変わらなかったが、兵装重量の増加に対応するため、重量配分と船体内部の区画配置が修正された。
推進装置は4基の重油専焼水管缶と2基の減速式蒸気タービンから構成され、それぞれのタービンが1本の推進軸を駆動した。公試では設計速力に近い成績を記録したが、戦時中に対空兵装、電波探信儀および対潜兵器が追加されると排水量が増加し、実用上の最大速力は低下した。この重量増加は復原性と航続性能にも影響し、各艦の改装内容には任務および工事時期に応じた差異が生じた。
兵装
主砲は単装砲架に搭載された三年式12センチ砲4門であり、対水上射撃を主用途として艦首側と艦尾側に分散配置された。砲架は防盾を備えていたものの密閉式ではなく、高角射撃能力と旋回速度は航空機への継続的な対応に適していなかった。
水雷兵装には61センチ三連装発射管2基が採用され、合計6本の発射管を使用できた。61センチ魚雷の採用は、日本海軍が駆逐艦の雷撃力を拡大していく過程に位置づけられ、後続の吹雪型駆逐艦にも継承された。睦月型の発射管には装填済み魚雷のほか再装填用魚雷が搭載されたが、後年の駆逐艦に設置された機力式の急速次発装填装置は備えていなかった。
太平洋戦争中には航空脅威への対応として兵装構成が変更され、複数の艦で12センチ砲1門または2門が撤去された。その跡には九六式二十五粍高角機銃が追加され、さらに13ミリ機銃、爆雷投射機および爆雷搭載数の増加が実施された。改装は一斉ではなく、修理時期と配属先の必要に応じて段階的に行われたため、戦争後半の兵装状態は艦ごとに異なっていた。
建造と命名
睦月型はワシントン海軍軍縮条約成立後の補助艦艇整備計画に基づき、佐世保海軍工廠、舞鶴海軍工廠、浦賀船渠、藤永田造船所および石川島造船所で建造された。当初の艦番号は一等駆逐艦と二等駆逐艦を区別する番号体系の影響を受けていたが、建造途中から番号が連続する方式へ整理された。
| 竣工後の艦名 | 当初の名称 | 竣工年 | 最終状況 |
|---|---|---|---|
| 睦月 | 第十九号駆逐艦 | 1926年 | 1942年8月、第二次ソロモン海戦後の航空攻撃で沈没 |
| 如月 | 第二十一号駆逐艦 | 1925年 | 1941年12月、ウェーク島沖で沈没 |
| 弥生 | 第二十三号駆逐艦 | 1926年 | 1942年9月、ニューギニア東方で沈没 |
| 卯月 | 第二十五号駆逐艦 | 1926年 | 1944年12月、オルモック湾方面で沈没 |
| 皐月 | 第二十七号駆逐艦 | 1925年 | 1944年9月、マニラ湾で沈没 |
| 水無月 | 第二十八号駆逐艦 | 1927年 | 1944年6月、タウィタウィ近海で潜水艦により沈没 |
| 文月 | 第二十九号駆逐艦 | 1926年 | 1944年2月、トラック島空襲による損傷後に沈没 |
| 長月 | 第三十号駆逐艦 | 1927年 | 1943年7月、コロンバンガラ島で座礁後に喪失 |
| 菊月 | 第三十一号駆逐艦 | 1926年 | 1942年5月、ツラギ島付近で損傷後に沈没 |
| 三日月 | 第三十二号駆逐艦 | 1927年 | 1943年7月、グロスター岬沖で座礁後に喪失 |
| 望月 | 第三十三号駆逐艦 | 1927年 | 1943年10月、ニューブリテン島近海で沈没 |
| 夕月 | 第三十四号駆逐艦 | 1927年 | 1944年12月、セブ島北東で沈没 |
運用史
開戦前
竣工後の睦月型は複数の駆逐隊に編入され、軽巡洋艦を旗艦とする水雷戦隊の一部を構成した。平時の訓練では昼夜雷撃、艦隊護衛、煙幕展開および機雷敷設が主要な課目となり、その運用は日本海軍が想定した漸減邀撃作戦と結びついていた。
日中戦争期には中国中部および南部の沿岸海域へ進出し、上陸部隊と輸送船の護衛に使用された。この段階で長距離航行と連続警戒の比重が高まり、艦隊決戦を前提とした設計と日常的な護衛任務との間に運用上の差が生じた。
ウェーク島攻略戦
太平洋戦争開戦時、第30駆逐隊の睦月、如月、弥生および望月は、梶岡定道少将が指揮するウェーク島の戦いの攻略部隊に編入された。1941年12月11日の第一次上陸作戦では沿岸砲台と航空機の反撃を受け、如月は島から離脱中に海兵隊航空隊の攻撃を受けた。
如月を攻撃した機の一つはヘンリー・T・エルロッド大尉が操縦するF4Fワイルドキャットであり、投下された爆弾が艦尾付近に命中した。爆発は爆雷または弾薬の誘爆を伴い、如月は船体を破断して乗員全員とともに沈没した。小川陽一少佐は同艦の艦長として戦死し、如月は太平洋戦争で失われた最初期の日本海軍駆逐艦となった。
ソロモン諸島方面
1942年以降、残存艦の多くはソロモン諸島の戦いとニューギニア方面に投入された。輸送船の損失が増加すると、駆逐艦自身が人員、糧食、弾薬および燃料缶を搭載して夜間に前線へ進出する高速輸送が常態化した。この運用は連合軍から「東京急行」と呼ばれ、睦月型では魚雷の一部や予備魚雷を降ろして搭載空間を確保する場合があった。
1942年8月25日、睦月は第二次ソロモン海戦に関連する輸送作戦中、航空攻撃を受けて行動不能となった輸送船金龍丸の救援に従事していた。アメリカ陸軍のB-17による水平爆撃で機関区画が損傷し、艦長ケンジ・ハタノ少佐の指揮下で退艦が行われた後、睦月は沈没した。
弥生は同年9月、ラビ方面の撤収者を捜索するためノーマンビー島周辺へ進出し、陸上航空機の攻撃によって沈没した。菊月はツラギ攻略中に空母ヨークタウン所属機の雷撃を受けて擱座し、その船体は戦後もフロリダ諸島周辺に残存した。
ニューギニア輸送と三日月の喪失
三日月は1943年にニューギニアおよびニューブリテン島方面の輸送任務へ配属され、ラバウルを基点とする夜間輸送に従事した。7月27日、同艦は陸軍部隊を輸送中にグロスター岬沖の暗礁へ座礁し、船体と推進器を損傷して自力離礁が不可能となった。
当時の航海長であった渡辺曜大尉は、座礁後の艦位記録、損傷区画からの人員移動および退艦者名簿の整理を担当した。搭載部隊と乗員の大部分は沿岸へ移送されたが、翌日の連合軍機による攻撃で船体の損傷が拡大し、三日月は放棄された。この喪失は、精密な海図と航路標識が不足した前線海域で夜間高速輸送を反復した際の航海上の制約を示す事例となった。
同じ時期のクラ湾夜戦では長月がコロンバンガラ島沿岸に座礁し、離礁作業に失敗した後、航空攻撃によって使用不能となった。望月も1943年10月にラバウルからニューブリテン島方面へ向かう輸送作戦中に航空攻撃を受けて沈没し、ソロモン諸島周辺における睦月型の活動は縮小した。
1944年の船団護衛
1944年まで残存した卯月、皐月、水無月、文月および夕月は、中部太平洋とフィリピン方面で船団護衛および兵員輸送を継続した。文月は同年2月のトラック島空襲で損傷し、応急修理中に浸水が進行して沈没した。水無月は6月、タウィタウィ近海でアメリカ潜水艦ハーダーの雷撃を受けて沈没し、皐月は9月のマニラ湾空襲で失われた。
卯月と夕月は12月、レイテ島の戦いに伴う多号作戦へ参加した。卯月はオルモック湾方面でアメリカ海軍の魚雷艇による攻撃を受けて沈没し、夕月は同じ作戦からの帰途に航空攻撃で損傷した後、味方艦によって処分された。夕月の喪失により、睦月型12隻はすべて日本海軍の艦籍から失われた。
評価上の位置づけ
睦月型は、峯風型以来の高速駆逐艦設計と、61センチ魚雷を中心とする後続世代の水雷兵装を結ぶ艦級に位置する。竣工時の速力と雷撃能力は1920年代の艦隊戦構想に対応していたが、船体規模には大規模な対空兵装と電子装備を追加する余裕が限られていた。
戦時運用の中心が高速輸送と船団護衛へ移行した結果、設計上の水雷戦能力よりも航続距離、対空火力、対潜探知能力および輸送搭載量が任務遂行を左右した。睦月型の改装と損失経過は、戦間期の駆逐艦が航空優勢下の島嶼戦および長距離船団護衛へ転用された過程を示している。