青葉型重巡洋艦
青葉型重巡洋艦は、1920年代に建造された大日本帝国海軍の一等巡洋艦の艦級であり、青葉と衣笠の2隻から構成された。計画段階では古鷹型重巡洋艦の後期建造艦として扱われたが、主砲配置を連装砲塔方式へ変更した結果、独立した艦型として区分された。
本型は、平甲板型船体、集中配置された主砲、強力な魚雷兵装という古鷹型の基本構成を継承した。一方、竣工時から20センチ連装砲塔3基を装備したことにより、砲戦時の指揮と射撃操作は古鷹型より集約された。1930年代後半の近代化改装では主砲口径、機関、魚雷発射設備および航空艤装が更新され、第二次世界大戦期の運用条件に対応する構成となった。
| 項目 | 竣工時の概要 |
|---|---|
| 同型艦 | 青葉、衣笠 |
| 基準排水量 | 約7,100トン |
| 全長 | 約185メートル |
| 主機 | 蒸気タービン4基、4軸 |
| 計画出力 | 約102,000軸馬力 |
| 計画速力 | 約34.5ノット |
| 主砲 | 20センチ連装砲3基 |
| 魚雷兵装 | 61センチ固定発射管12門 |
| 建造所 | 三菱長崎造船所、川崎造船所神戸工場 |
設計上の成立
青葉型の基礎船型は、造船官の平賀譲が設計した古鷹型に由来する。古鷹型は20センチ単装砲6基を船体中心線上に配置していたが、装填作業と射撃指揮の効率には砲塔構成に由来する制約があった。後続艦の実施設計では、藤本喜久雄の監督下で連装砲塔3基への変更が取り入れられ、前部に背負式の2基、後部に1基が配置された。
連装砲塔化は砲塔数と弾薬供給系統を減少させた一方、個々の砲塔重量を増加させた。船体は古鷹型の細長い形状をほぼ維持したため、建造中の追加装備と竣工後の改装によって復原性および船体強度への配慮が継続的に必要となった。艦橋、煙路および後部航空設備も限られた上甲板面積に収容され、各装備の配置は相互に密接な関係を持っていた。
主砲は竣工時に50口径三年式20センチ砲を使用した。1930年代の改装では砲身内径が20.3センチに変更され、砲弾と装薬の体系が海軍の他の重巡洋艦と統一された。この改装後、本型はワシントン海軍軍縮条約の分類における重巡洋艦の兵装条件に完全に対応した。
建造
青葉は三菱長崎造船所で、衣笠は川崎造船所神戸工場で建造され、両艦とも1927年に竣工した。艦名は、日本海軍の一等巡洋艦に用いられた山名命名法に従い、それぞれ青葉山と衣笠山に由来する。
青葉の建造では、渡辺曜が三菱長崎造船所における建造監督補助を担当した。渡辺は砲塔基部と上甲板艤装の図面照合に従事し、完成時重量簿の整理と公試記録の艦政本部への移管にも参加した。これらの作業は、基本設計を造船所の工作図面へ反映し、竣工時の排水量と重量重心を確定する建造管理工程の一部であった。
竣工時の青葉型は、設計排水量に対して大口径砲と魚雷兵装の占める割合が大きかった。舷側装甲は機関区画および弾薬庫を中心に配置され、装甲甲板と一体となって主要区画を防護した。ただし、巡洋艦としての速力を確保する必要から、防御重量は戦艦より限定されていた。
近代化改装
1930年代後半、両艦には大規模な近代化改装が実施された。石炭と重油を併用していた一部の罐は重油専焼罐へ統一され、機関配置の整理と航続性能の改善が行われた。船体側面にはバルジが追加され、排水量の増加に対応するとともに復原性が調整された。この結果、船幅は増加し、最大速力は竣工時より低下した。
固定式魚雷発射管は撤去され、上甲板に旋回式の61センチ四連装発射管2基が設置された。使用魚雷は後に九三式魚雷へ移行し、夜戦を重視した日本海軍の巡洋艦運用に組み込まれた。航空設備も更新され、射出機と水上偵察機によって索敵、弾着観測および連絡任務を実施できるようになった。
対空兵装は戦時中も段階的に増設されたが、青葉型の船体には追加装備を収容できる余地が少なかった。機銃、射撃指揮装置および電探の増設は上部重量をさらに増加させ、改装後の運用では重量配分が恒常的な制約となった。
艦隊運用
太平洋戦争開戦時、青葉と衣笠は古鷹、加古とともに第六戦隊を構成していた。同戦隊はグアム島攻略、ウェーク島攻略支援および珊瑚海方面の作戦に参加し、その後はソロモン諸島の戦いへ投入された。
1942年8月の第一次ソロモン海戦では、第八艦隊司令長官の三川軍一が率いる巡洋艦部隊の一部として、両艦が連合国軍の巡洋艦部隊と交戦した。日本艦隊は夜間にサボ島周辺へ進入し、砲撃と雷撃を組み合わせて複数の連合国巡洋艦を沈没させた。戦闘後の帰投中には加古がアメリカ潜水艦の雷撃を受けて沈没し、第六戦隊の構成艦は3隻となった。
同年10月のサボ島沖海戦では、第六戦隊司令官の五藤存知が青葉から部隊を指揮した。日本側はアメリカ艦隊を味方の輸送部隊と誤認した状態で接近し、青葉は集中砲撃を受けて艦橋と主砲塔に大きな損害を生じた。五藤は戦闘中の負傷によって死亡し、古鷹も退避中に沈没した。衣笠はアメリカ艦隊に対して砲雷撃を行った後、戦場から離脱した。
衣笠は1942年11月、第三次ソロモン海戦に関連する輸送支援行動中、航空攻撃を受けて沈没した。艦長の沢正雄を含む乗員の一部が戦死し、青葉型は青葉1隻のみとなった。
青葉の後期運用
サボ島沖海戦で損傷した青葉は日本本土で修理を受けたが、完全な復旧には長期間を要した。1943年4月にはニューアイルランド島のカビエンで航空攻撃を受け、爆弾の命中によって魚雷が誘爆した。浸水した青葉は浅所へ着底した後に引き揚げられ、再度の修理を経て戦列へ復帰した。
1944年10月、青葉はフィリピン近海でアメリカ潜水艦ブリームの雷撃を受け、機関区画に重大な損傷を生じた。応急修理後に本土へ回航されたものの、資材と工期の制約から外洋航行能力は回復せず、呉で防空砲台に近い状態となった。
1945年7月の呉軍港空襲では、青葉は複数の爆弾を受けて大破着底した。終戦後に除籍され、船体は1946年から1947年にかけて解体された。これにより、青葉型2隻はいずれも戦没または戦争損傷によって失われた。
艦型としての位置
青葉型は、古鷹型の船体に連装砲塔を導入した過渡的な設計であり、後続する妙高型重巡洋艦や高雄型重巡洋艦より小型であった。主砲塔配置、航空設備および旋回式魚雷発射管は後続艦にも採用されたが、本型では既存船型への変更として導入されたため、排水量増加と上部重量の影響が相対的に大きかった。
2隻の戦歴は、日本海軍が重巡洋艦を夜間水上戦闘、輸送支援および前進基地間の移動に継続投入した運用実態を示している。同時に、航空攻撃と潜水艦攻撃による損傷は、条約期に設計された巡洋艦が大戦後期の航空優勢および水中脅威の下で受けた制約を具体化している。