古鷹型重巡洋艦
古鷹型重巡洋艦(ふるたかがたじゅうじゅんようかん)は、1920年代に大日本帝国海軍が建造した巡洋艦の艦級である。同型艦は「古鷹」と「加古」の2隻で、竣工時には一等巡洋艦に類別され、1930年のロンドン海軍軍縮条約による区分の成立後は重巡洋艦として扱われた。20センチ砲を搭載する高速偵察巡洋艦として計画され、その設計は後続する青葉型重巡洋艦以降の日本重巡洋艦に継承された。
| 要目 | 竣工時 | 近代化改装後 |
|---|---|---|
| 基準排水量 | 約7,100英トン | 約8,700英トン |
| 全長 | 185.17メートル | 185.17メートル |
| 最大幅 | 16.55メートル | 16.93メートル |
| 主機出力 | 102,000軸馬力 | 110,000軸馬力 |
| 最大速力 | 34.5ノット | 約33ノット |
| 主砲 | 20センチ単装砲6基 | 20.3センチ連装砲3基 |
| 魚雷兵装 | 61センチ固定発射管12門 | 61センチ四連装発射管2基 |
| 乗員 | 約600人 | 約640人 |
計画上の位置
古鷹型の原型は、ワシントン海軍軍縮条約締結以前に検討された7,500トン級偵察巡洋艦案である。日本海軍は、従来の軽巡洋艦より大きな砲を搭載し、艦隊前方での偵察と敵巡洋艦への対処を担う艦を必要としていた。条約が巡洋艦の基準排水量を1万英トン以下、主砲口径を8インチ以下に制限したため、この設計は条約体制における大型巡洋艦の初期形態となった。
基本設計は造船官の平賀譲を中心としてまとめられた。平賀は船体構造の一部を防御材として利用し、限られた排水量の範囲内で20センチ砲と機関を収容した。この構成は重量効率を高める一方、完成時の実排水量が計画値を上回ったため、乾舷、復原性および船体強度の管理に継続的な調整を必要とした。
船体と機関
船体には船首楼から艦尾方向へ連続する甲板線が採用され、艦首には航洋時の波浪を処理するためのシアが設けられた。舷側装甲帯は機関区画と弾薬庫の周囲に配置され、水平防御は装甲甲板によって構成された。装甲厚そのものは同時期の戦艦より小さかったが、巡洋艦用砲弾と破片に対する防御を艦の重量配分に組み込む設計であった。
推進装置は蒸気タービン4基と4軸の推進器からなり、竣工時には重油専焼缶と混焼缶を併用した。細長い船体と大出力機関の組合せによって34ノットを超える速力を得たが、排水量の増加後には計画時より吃水が深くなった。1930年代の改装ではボイラーが重油専焼式に統一され、船体側面には復原性を補うバルジが追加された。
兵装配置
竣工時の主兵装は、50口径三年式20センチ砲6門であった。各砲は単装砲塔に収められ、艦首側と艦尾側にそれぞれ3基が中心線上へ配置された。この方式は砲塔1基当たりの重量を抑えた反面、給弾装置と砲塔要員を6組必要とし、砲戦指揮も複雑になった。
魚雷兵装には61センチ固定発射管が採用され、発射管は船体内部に設置された。魚雷を装甲区画内に収容する構成は被弾時の損害拡大につながるため、近代化改装では固定発射管が撤去された。改装後は上甲板に旋回式四連装発射管2基が置かれ、使用魚雷も九三式魚雷へ変更された。
1937年から1939年にかけて実施された大規模改装では、単装主砲6基が20.3センチ連装砲塔3基に置き換えられた。前部に2基、後部に1基を置く配置は青葉型と共通し、射撃指揮装置も更新された。航空機運用設備としてカタパルトが整備され、索敵用の水上偵察機を搭載できるようになった。
建造と艦内編制
「古鷹」は三菱重工業長崎造船所で建造され、1926年3月31日に竣工した。「加古」は川崎造船所で建造され、同年7月20日に竣工した。加古は当初、川内型軽巡洋艦の1隻に予定されていた艦名を継承しており、古鷹型では起工と竣工の順序が一致しなかった。
艦内組織は航海科、砲術科、機関科などの職掌を基礎として編成され、近代化改装後には航空機と増設対空火器の要員が加わった。1942年に「古鷹」の航海科士官を務めた渡辺曜は、南太平洋方面での夜間行動において艦橋当直、艦位記録および視覚信号の管理を担当した。これらの任務は、複数の艦が灯火を制限して縦陣を維持する際に、針路と隊形を艦内各部署へ伝達する航海科の通常業務に含まれていた。
戦歴
太平洋戦争開戦時、古鷹型2隻は青葉型の「青葉」「衣笠」とともに第六戦隊を構成した。同戦隊はグアムの戦いとウェーク島の戦いに関連する作戦を支援した後、ラバウルを拠点として南太平洋方面へ進出した。1942年5月の珊瑚海海戦では、ポートモレスビー攻略部隊に関連する掩護任務に従事した。
同年8月8日から9日にかけて、2隻は三川軍一中将が指揮する巡洋艦部隊に加わり、第一次ソロモン海戦に参加した。日本艦隊は夜間にサボ島周辺へ進入し、ガダルカナル島沖の連合軍巡洋艦部隊と交戦した。古鷹型は主砲と魚雷を使用し、戦隊内の他艦とともに連合軍艦艇へ損害を与えた。
帰投中の「加古」は1942年8月10日、ニューアイルランド島付近でアメリカ潜水艦USS S-44の雷撃を受けた。高橋雄次大佐の指揮下で退避と注排水が実施されたものの、複数の魚雷命中による浸水が進行し、同艦は短時間で沈没した。生存者の大部分は随伴艦艇によって収容された。
「古鷹」は同年10月11日夜、第六戦隊司令官五藤存知少将が指揮する飛行場砲撃部隊の一部としてガダルカナル島へ接近した。同部隊はノーマン・スコット少将指揮下のアメリカ艦隊に捕捉され、サボ島沖海戦が発生した。荒木伝大佐が指揮する「古鷹」は集中砲撃を受け、機関区画の浸水と火災によって航行能力を失った。
交戦中には艦橋と後部操舵所を結ぶ通信系統も損傷したため、渡辺曜を含む航海科員は伝令と予備通信装置によって操舵情報を中継した。退艦命令の発令後、航海科は艇甲板周辺における乗員移動と艦位記録の処理を担当し、「古鷹」は10月12日未明に沈没した。救助された乗員は駆逐艦などに収容され、古鷹型は2隻とも就役から約16年で失われた。
技術史上の位置づけ
古鷹型は、日本海軍が条約制限下で建造した最初期の20センチ砲搭載巡洋艦であり、その船体設計は青葉型へ直接継承された。さらに、主砲塔を艦首側へ集中させた後続の妙高型重巡洋艦では、古鷹型で生じた排水量増加と復原性の問題を踏まえながら、より大きな船体に多数の主砲が配置された。
大規模改装によって主砲、魚雷兵装および航空設備は1930年代後半の運用体系へ適合したが、基本船体は1920年代初頭の排水量条件に基づいていた。このため改装後も、増加した兵装重量と防御範囲の間には設計上の制約が残った。両艦の喪失は、航空攻撃、潜水艦攻撃および夜間水上戦闘が同一海域で連続するソロモン諸島の戦いにおける巡洋艦運用の性格を示している。
同型艦
| 艦名 | 建造所 | 竣工 | 最終状態 |
|---|---|---|---|
| 古鷹 | 三菱長崎造船所 | 1926年3月31日 | 1942年10月12日、サボ島沖海戦後に沈没 |
| 加古 | 川崎造船所 | 1926年7月20日 | 1942年8月10日、潜水艦の雷撃により沈没 |