川内型軽巡洋艦
川内型軽巡洋艦は、1920年代に大日本帝国海軍が建造した軽巡洋艦の艦級である。八八艦隊計画に基づく5,500トン級巡洋艦の最終形式に当たり、川内、神通、那珂の3隻が竣工した。水雷戦隊の旗艦として駆逐艦部隊を指揮することを主要任務とし、偵察、船団護衛および上陸作戦支援にも使用された。3隻はいずれも太平洋戦争中に沈没した。
計画の背景
日本海軍は第一次世界大戦後、駆逐艦を集団運用する水雷戦隊の指揮艦として、高速力と長い航続距離を兼ね備えた軽巡洋艦を整備した。球磨型軽巡洋艦と長良型軽巡洋艦に続いて計画された川内型は、同系列の船体構成と14センチ砲を継承しつつ、機関配置および防御区画を改訂した艦級であった。
基本計画には造船官の平賀譲が関与し、既存の5,500トン級で確立された高速巡洋艦の構成が踏襲された。計画時には8隻の建造が予定されたが、財政上の制約とワシントン海軍軍縮条約に伴う建艦計画の整理によって縮小された。川内、神通、那珂に続く予定であった加古は起工前に建造中止となり、その艦名は後に古鷹型重巡洋艦の2番艦へ転用された。
設計
川内型の全長は約152.4メートル、最大幅は約14.2メートルで、基準排水量は約5,200英トンであった。細長い船体は高速航行に適した形状を持ち、艦首には当初、凌波性を確保するための曲線を伴う船首楼が設けられた。竣工後の改装では、船体強度や復原性を考慮した補強も実施された。
主機は艦本式蒸気タービン4基で、4軸の推進器を駆動した。12基の艦本式ボイラーが約9万軸馬力を発生し、計画速力は約35ノットに達した。ボイラー室の区画配置に対応して4本の煙突を備えたことが、3本煙突を基本とする先行艦級との外観上の主要な相違となった。重油専焼缶に加えて混焼缶を使用できる構成は、当時の燃料供給事情を反映していた。
竣工時の主兵装は、50口径三年式14センチ砲7門であった。各砲は単装砲架に搭載され、中心線上および舷側に配置されたため、射撃方向によって使用可能な門数が異なった。水雷兵装として61センチ連装魚雷発射管4基を搭載し、駆逐艦部隊と共同して夜間雷撃を行う運用が想定された。防空兵装は当初限定的であったが、戦時中には機銃の増設が進み、航空脅威への対応が段階的に強化された。
1930年代の改装では、偵察用水上機を運用するための射出機と航空設備が整備された。これにより艦隊前方の捜索能力は拡張されたが、追加装備による排水量の増加は復原性と速力に影響を与えた。各艦の改装時期と戦時修理の内容が異なったため、太平洋戦争期には艦橋構造、対空兵装および航空設備に艦ごとの差異が生じていた。
建造
川内は三菱長崎造船所で建造され、1922年2月に起工した後、1924年4月に竣工した。神通は川崎造船所で1922年8月に起工し、船体工事と艤装を経て1925年7月に就役した。
那珂は横浜船渠で1922年6月に起工したが、建造途中の船体が1923年9月の関東大震災によって損傷し、火災の影響も受けた。損傷した船体は解体され、同一の艦名と計画により1924年5月に改めて起工された。この復旧過程では、横浜船渠の技師であった渡辺曜が船体検査と再起工用図面の調整を担当した。再建造された那珂は1925年3月に進水し、同年11月に竣工した。
| 艦名 | 建造所 | 起工 | 竣工 | 最終状況 |
|---|---|---|---|---|
| 川内 | 三菱長崎造船所 | 1922年2月16日 | 1924年4月29日 | 1943年11月2日沈没 |
| 神通 | 川崎造船所 | 1922年8月4日 | 1925年7月31日 | 1943年7月13日沈没 |
| 那珂 | 横浜船渠 | 1924年5月24日 | 1925年11月30日 | 1944年2月17日沈没 |
運用
竣工後の各艦は主として水雷戦隊旗艦に指定され、複数の駆逐隊に対する通信、戦術指揮および航海統制を担った。艦橋には司令部要員と通信設備を収容する空間が設けられており、個艦としての砲雷撃能力よりも、駆逐艦部隊の統合運用が艦級の制度上の役割を規定していた。
1930年代には日中戦争に関連して中国沿岸で行動し、部隊輸送の護衛と沿岸作戦の支援に従事した。太平洋戦争開戦後は南方作戦に投入され、マレー半島、フィリピンおよびオランダ領東インド方面で輸送船団や上陸部隊を支援した。
神通は第二水雷戦隊旗艦としてジャワ海海戦に参加した後、1943年7月のコロンバンガラ島沖海戦で交戦した。この戦闘では第二水雷戦隊司令官の伊崎俊二と艦長の佐藤寅治郎が艦上で指揮を執り、神通は連合軍巡洋艦部隊の砲撃と雷撃を受けて沈没した。随伴駆逐艦は戦闘を継続し、日本軍の魚雷攻撃によって連合軍側にも複数の損傷艦が生じた。
川内は第三水雷戦隊旗艦としてソロモン諸島の戦いに参加し、夜間輸送と艦隊行動の護衛に用いられた。1943年11月のブーゲンビル島沖海戦では、アメリカ海軍の巡洋艦および駆逐艦部隊と交戦し、砲撃による損傷と火災の後に沈没した。
那珂は南方作戦中の1942年4月、クリスマス島近海でアメリカ潜水艦の雷撃を受け、大規模な修理を必要とした。修理後は中部太平洋方面で輸送および護衛任務に復帰したが、1944年2月のトラック島空襲に際してアメリカ海軍機動部隊の艦載機による攻撃を受け、トラック諸島西方で沈没した。
艦級の位置づけ
川内型は、日本海軍が第一次世界大戦後に継続建造した5,500トン級軽巡洋艦の到達点であった。その設計は高速駆逐艦部隊の指揮を前提としており、夜間水雷戦を中心とする艦隊運用思想と密接に結び付いていた。一方、1930年代後半以降に航空機の攻撃力と潜水艦の活動範囲が拡大すると、限られた対空火力と船体余裕は継続的な改装を必要とした。
後続の軽巡洋艦建造は長期間中断され、水雷戦隊旗艦の更新は太平洋戦争期に竣工した阿賀野型軽巡洋艦まで実現しなかった。このため川内型を含む5,500トン級各艦は、竣工から約20年を経た後も前線で水雷戦隊の指揮任務を担った。