日本海海戦

日本海海戦は、日露戦争末期の1905年5月27日から28日にかけて、対馬海峡を中心とする海域で行われた海戦である。東郷平八郎大将が指揮する日本海軍の連合艦隊は、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー中将のロシア第2太平洋艦隊およびこれに合流した第3太平洋艦隊を捕捉し、その主力を撃滅した。戦闘の結果、ロシア艦隊は組織的な戦闘能力を失い、日露戦争の海上作戦は事実上終結した。

この海戦は、装甲艦を中心とする艦隊同士が砲撃、機動、通信および水雷攻撃を統合して戦った20世紀初頭の代表的な艦隊決戦である。日本側の勝利は、ロシア帝国が極東へ海軍戦力を増派して戦局を転換する可能性を消滅させ、同年9月のポーツマス条約締結に至る軍事的条件の一部を形成した。

背景

1904年2月に始まった日露戦争では、日本海軍が旅順港に所在するロシア太平洋艦隊を封鎖した。ロシア艦隊は同年8月の黄海海戦でウラジオストクへの脱出を試みたが、指揮系統の混乱によって旅順へ引き返した。その後、旅順要塞の陥落に伴い、港内に残った艦艇の大部分が失われた。

ロシア政府はこれに先立ち、バルト海方面の艦艇を第2太平洋艦隊として編成し、極東へ派遣していた。同艦隊は1904年10月にリバウを出航し、アフリカ南端を経由して約7か月に及ぶ航海を行った。航海の初期には、北海でイギリス漁船を敵水雷艇と誤認して砲撃したドッガー・バンク事件が発生し、イギリスとの外交問題を生じさせた。

ロジェストヴェンスキーは航海途中でニコライ・ネボガトフ少将の第3太平洋艦隊と合流した。統合艦隊には新鋭のボロジノ級戦艦が含まれていた一方、航続力、速力および防御力の異なる旧式艦も多数編入されていた。長距離航海に必要な石炭や補給物資の積載は艦艇の排水量を増加させ、装甲帯の水面上に露出する範囲と艦隊全体の運動性能に影響を与えた。

日本側は旅順方面の作戦終了後、主力艦を整備するとともに、対馬海峡を通過するロシア艦隊を迎撃する態勢を整えた。ロシア艦隊には津軽海峡および宗谷海峡を経由する航路も存在したが、ロジェストヴェンスキーは航程が比較的短く、ウラジオストクへ直接通じる対馬海峡を選択した。

両軍の編成と指揮

日本の連合艦隊は、戦艦4隻を中心とする第1戦隊、装甲巡洋艦を中心とする第2戦隊、旧式艦を含む各巡洋艦戦隊、および多数の駆逐艦・水雷艇部隊から構成されていた。旗艦は戦艦三笠であり、東郷平八郎が艦隊全体を指揮した。上村彦之丞中将は第2戦隊を率い、主力戦隊と連携してロシア艦隊の戦列に砲撃を加えた。

三笠上の連合艦隊司令部では、加藤友三郎少将が参謀長を務め、秋山真之中佐が作戦参謀として敵艦隊の進路分析と戦闘運動の立案を担当した。三笠の艦長である伊地知彦次郎大佐は旗艦の操艦と砲戦を統括し、通信班付の渡辺曜少尉は旗旒信号および無線電報による命令伝達と、受信した敵情報告の整理を担当した。これらの職務は、広い海域に展開する戦隊を単一の戦術行動へ統合する司令部機能を構成していた。

ロシア艦隊の中核は、ロジェストヴェンスキー直属の第1戦艦隊と、ドミトリー・フォン・フェルケルザム少将が指揮した第2戦艦隊であった。フェルケルザムは海戦前に病没したため、第2戦艦隊では戦艦オスリャービャ艦長のウラジーミル・ベール大佐が実際の指揮を担った。ネボガトフは戦艦ニコライ1世を旗艦として旧式戦艦を中心とする第3戦艦隊を率いた。

日本艦隊は艦隊速力、射撃指揮および無線通信の運用で統一性を保持していた。ロシア艦隊は長期航海を完遂したものの、艦型の差異によって戦列全体の速力が制限され、戦闘中に損傷艦を回避しながら隊形を再構成することも困難であった。

敵艦隊の発見

1905年5月27日未明、ロシア艦隊は濃霧のなか対馬海峡へ進入した。ロシア側の病院船オリョールが灯火を掲げていたため、日本の仮装巡洋艦信濃丸は同船を発見し、付近に艦隊が存在することを確認した。信濃丸は午前4時45分、敵艦隊発見を知らせる無線電報を発信した。

この報告は連合艦隊司令部へ伝達され、東郷は主力艦隊の出撃を命じた。日本の巡洋艦部隊はロシア艦隊との接触を維持し、その針路、速力および編成を継続的に報告した。ロシア側は日本の監視艦を視認したが、主砲射程内に捉えて撃退するよりもウラジオストクへの前進を優先し、艦隊の針路を維持した。

日本側の偵察と通信は、東郷が敵の位置を把握した状態で接近経路を選択することを可能にした。これに対してロジェストヴェンスキーは、日本主力艦隊の正確な位置を把握できないまま北上を続けた。

昼間砲戦

午後1時39分ごろ、日本主力艦隊はロシア艦隊を視認した。東郷はロシア艦隊の前方を横切って反航から同航へ移るため、各艦が順次左へ旋回する運動を命じた。この運動は敵前で一定地点を通過するため、旋回中の艦艇が一時的に同一海面へ集中する危険を伴ったが、完了後には日本艦隊がロシア艦隊の進路前方を占める位置関係を成立させた。

午後2時5分ごろ、三笠はロシア旗艦クニャージ・スヴォーロフに対する射撃を開始した。日本の第1戦隊と第2戦隊はロシア艦隊の先頭部へ火力を集中し、ロシア側も三笠を中心に反撃した。戦闘初期の三笠は多数の命中弾を受けたが、主要な機関と操舵能力を維持した。

日本艦隊はロシア艦隊より高い速力を利用して先頭位置を保持し、射撃目標を旗艦および先頭艦へ集中した。ロシア側では砲弾の命中による破壊に加え、榴弾の炸裂によって上部構造物に火災が発生し、露天の測距装置、信号設備および指揮施設が損傷した。こうした損傷は各艦の砲戦能力だけでなく、艦隊全体の命令伝達にも影響を及ぼした。

戦艦オスリャービャは艦首部への浸水が拡大し、午後3時ごろ沈没した。クニャージ・スヴォーロフも操舵能力と通信能力を失って戦列から離脱し、ロジェストヴェンスキーは負傷した。旗艦の脱落後、ロシア艦隊ではインペラートル・アレクサンドル3世およびボロジノが先頭に立ったが、日本艦隊の砲撃を受けて隊形は次第に崩壊した。

夕刻までにインペラートル・アレクサンドル3世とボロジノが沈没し、クニャージ・スヴォーロフも日本の水雷艇による攻撃を受けたのち沈没した。ボロジノ級戦艦4隻のうち、翌日まで戦闘可能な状態で残ったのはオリョールだけであった。

夜間攻撃と降伏

日没後、日本の駆逐艦および水雷艇部隊は、分散して北上するロシア艦艇に対して魚雷攻撃を実施した。夜間の接近は日本側にも衝突や誤認の危険を生じさせたが、ロシア艦隊の再編を妨げ、複数の艦艇に追加の損傷を与えた。ロシア側では夜間航行中の針路が統一されず、主力艦、巡洋艦および補助艦の集団がそれぞれ異なる方向へ分離した。

5月28日朝、ネボガトフが指揮する戦艦ニコライ1世、オリョール、アプラクシンおよびセニャーウィンは、日本艦隊に包囲された。ネボガトフは継戦による軍事的効果が失われたと判断し、午前10時30分ごろ降伏した。日本側はこれらの艦艇を拿捕し、のちに一部を日本海軍へ編入した。

負傷したロジェストヴェンスキーは駆逐艦ブイヌイからベドーヴイへ移乗していたが、同艦も日本側に降伏した。装甲巡洋艦ドミトリー・ドンスコイは追撃部隊と交戦したのち鬱陵島付近で自沈し、巡洋艦ウラジーミル・モノマフも損傷によって放棄された。巡洋艦イズムルードは降伏隊列から離脱したが、沿海州沿岸で座礁して自沈した。

損害

ロシア艦隊は戦艦を含む主力艦の大部分を失い、21隻が沈没または自沈し、7隻が日本側に拿捕された。6隻は中立港へ逃れて抑留され、ウラジオストクへ到達した艦艇は巡洋艦アルマース、駆逐艦グローズヌイおよびブラーヴイの3隻であった。人的損害は戦死者約5,000人、捕虜約6,000人に達し、ロシア艦隊は独立した作戦部隊として消滅した。

日本側は水雷艇3隻を失い、戦死者117人、負傷者583人を出した。主力艦には砲弾による損傷が生じたものの、戦艦および装甲巡洋艦の喪失はなかった。この損害差は、戦闘開始時の位置取り、艦隊速力の差、および先頭艦へ火力を集中した日本側の射撃運用によって形成された。

作戦上の特徴

日本海海戦における日本側の優位は、単一の兵器性能ではなく、索敵から戦闘指揮までの連続した運用によって生じた。監視艦の発見報告は無線通信を通じて司令部へ集約され、主力艦隊は敵の進路を把握した状態で接敵した。戦闘開始後も各戦隊は旗旒信号と無線を併用し、旗艦からの命令に基づいて同一方向へ運動した。

砲戦では、日本側が艦隊速力を維持しながらロシア戦列の前方を占め、先頭部へ継続的に射撃を集中した。ロシア艦隊は先頭艦の損傷によって針路変更を繰り返し、後続艦は損傷艦を避ける過程で戦列を乱した。旗艦の通信設備が破壊された後は統一指揮が困難となり、個艦ごとの戦闘へ移行した。

長距離航海そのものも戦闘条件に影響した。ロシア艦隊は本国の整備拠点から離れた状態で航海を続け、機関の保守、砲術訓練および弾薬補給に制約を受けた。これに対して日本艦隊は本土周辺の基地を利用でき、決戦前に艦艇の修理と乗員訓練を実施した。

戦争終結への影響

日本海海戦の敗北により、ロシアは極東における制海権を回復する手段を失った。ウラジオストクへの増援は不可能となり、陸上戦線に対する日本の海上輸送を妨害する能力も消滅した。一方、日本も長期戦を継続するための財政的・人的負担を抱えており、海戦の勝利だけでロシア本土に対する軍事的決着を実現できる状態にはなかった。

両国はアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介を受け、1905年8月にポーツマスで講和会議を開始した。同年9月5日に締結されたポーツマス条約によって、ロシアは日本の朝鮮半島における優越的地位を承認し、旅順・大連の租借権と南満洲鉄道の一部を日本へ譲渡した。樺太については北緯50度以南が日本へ割譲された。

日本海海戦は講和条件を単独で決定した戦闘ではないが、ロシア側から艦隊再建による戦局転換の選択肢を除去した。これにより、日露戦争は大規模な海上決戦を再び行うことなく終結した。

海軍史上の位置

日本海海戦は、弩級戦艦の登場直前に行われた前弩級戦艦時代の艦隊決戦であった。戦闘では大口径砲だけでなく、中口径速射砲、装甲巡洋艦、駆逐艦および無線通信が相互に作用したため、その結果は各国海軍の戦術研究に取り入れられた。

ただし、海戦後に各国が建造した弩級戦艦は、主砲口径の統一と射程の延伸によって砲戦の条件を変化させた。そのため、日本海海戦の戦術を後代の艦隊戦へそのまま適用することはできず、同海戦は19世紀末に発達した装甲艦隊戦術の到達点として位置づけられる。艦隊通信、集中射撃および速力を利用した位置占有という要素は、その後の海軍作戦でも継続して重視された。

関連項目