日露戦争
日露戦争は、1904年2月から1905年9月まで、大日本帝国とロシア帝国の間で行われた戦争である。主要な戦域は朝鮮半島、満洲、黄海および日本海であり、戦闘は大規模な陸上会戦、要塞攻囲戦、装甲艦隊による海戦によって構成された。戦争は日本側の軍事的優勢と、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介によるポーツマス条約の締結をもって終結した。
背景
対立の直接的な背景には、19世紀末の東アジアにおける日本とロシアの勢力圏拡大があった。日清戦争に勝利した日本は、1895年の下関条約によって遼東半島を獲得したが、ロシア、フランスおよびドイツ帝国による三国干渉を受けて返還した。ロシアはその後、清から遼東半島南部を租借し、旅順港を海軍基地として整備するとともに、東清鉄道とその支線を通じて満洲における軍事的・経済的基盤を拡大した。
1900年の義和団事件に際してロシア軍は満洲を占領し、事件終結後も段階的撤兵を完了しなかった。日本政府は朝鮮における自国の優越的地位と、満洲におけるロシアの権益を相互に承認する構想を提示したが、交渉では朝鮮の軍事利用と満洲の位置づけをめぐる隔たりが解消されなかった。1904年2月、日本はロシアとの国交を断絶し、旅順港外のロシア艦隊に対する攻撃を開始した後、正式に宣戦を布告した。
戦争指導と動員
日本では明治天皇の下で大本営が設置され、陸軍と海軍はそれぞれの作戦体系を維持しながら戦争を遂行した。陸軍は朝鮮半島を兵站上の基盤として満洲南部へ進出し、海軍は朝鮮海峡と黄海の制海権を確保することで、大陸へ送られる兵員と物資の輸送を保護した。作戦遂行には国内輸送網、徴兵制度、外国からの借款および輸入軍需品が不可欠であり、とりわけ日本政府は高橋是清らを通じてロンドンとニューヨークの金融市場から戦費を調達した。
ロシア側では皇帝ニコライ2世の政府が極東総督府と満洲軍を通じて作戦を指導したが、ヨーロッパ・ロシアと戦域を結ぶ主要経路は、当時なお輸送能力の限られていたシベリア鉄道であった。このため兵力の増強には長期間を要し、現地司令部の作戦判断と中央政府の政治的判断との間にも時間的な隔たりが生じた。
満洲軍総参謀長を務めた児玉源太郎は、複数軍の作戦調整と奉天方面への兵力集中に関与した。ロシア満洲軍総司令官アレクセイ・クロパトキンは、後方から到着する増援を前提として段階的な戦力集積を進めたが、日本軍の前進によって会戦と後退を反復することになった。
陸上戦役
日本陸軍は黒木為楨指揮下の第1軍を朝鮮半島へ上陸させ、1904年4月から5月にかけて鴨緑江会戦でロシア軍を退却させた。この勝利によって日本軍は満洲への進路を確保し、後続部隊は遼東半島と遼陽方面に展開した。5月の南山の戦いでは、ロシア軍が構築した陣地に対する正面攻撃によって日本側に大きな損害が生じたが、戦場の占領により旅順と満洲中部との陸上連絡は遮断された。
1904年8月から9月の遼陽会戦では、双方がそれまでの戦闘を上回る兵力を投入した。日本軍はロシア軍の側面を圧迫したものの包囲には至らず、クロパトキンは部隊を奉天方面へ後退させた。続く沙河会戦と1905年初頭の黒溝台会戦でも戦線を決定的に崩壊させる結果は生じず、長大な塹壕線、機関銃、速射砲および有刺鉄線が攻撃側の損害を増大させた。
1905年2月から3月の奉天会戦では、日本軍が広い正面からロシア軍を攻撃し、両翼への圧力によって退路を脅かした。ロシア軍は包囲を回避して北方へ撤退し、日本軍は奉天を占領したが、追撃を継続して敵軍主力を消滅させるだけの兵站余力を欠いていた。この会戦は戦争最大の陸上戦闘となり、双方に多数の死傷者と行方不明者を生じさせた。
旅順攻囲戦
乃木希典が指揮する第3軍は、1904年5月以降、旅順要塞を陸上から包囲した。初期の総攻撃では、恒久堡塁と機関銃火力に対する歩兵突撃によって甚大な損害が発生し、日本軍は攻撃方法を坑道、塹壕および重砲射撃を組み合わせた攻囲戦へ移行させた。特に二〇三高地の占領後、日本軍は旅順港内を観測できる地点を確保し、沿岸砲と重砲によって停泊中のロシア艦艇を攻撃した。
要塞司令官アナトーリイ・ステッセルは1905年1月、残存兵力、弾薬、食料および防衛施設の状況を踏まえて降伏した。旅順の陥落により第3軍は満洲中央部へ転用され、奉天会戦では日本軍左翼からロシア軍の退路を圧迫する任務を担った。
海上戦役
開戦時、日本海軍は東郷平八郎が率いる連合艦隊を中心として、旅順艦隊の封鎖と大陸への輸送路の維持を図った。1904年4月、ロシア太平洋艦隊司令官ステパン・マカロフは戦艦ペトロパヴロフスクの触雷沈没によって戦死し、その後のロシア艦隊は旅順港を拠点としながら限定的な出撃を続けた。
同年8月の黄海海戦では、ウラジオストクへの脱出を試みたロシア艦隊が連合艦隊と交戦し、司令官ヴィリゲリム・ヴィトゲフトの戦死後に統制を失った。主力艦の多くは旅順へ戻り、他の艦艇は中立港へ入って抑留されたため、旅順艦隊は組織的な海上作戦能力を事実上失った。
連合艦隊司令部では、参謀秋山真之が敵艦隊の進路を想定した作戦立案と艦隊運動の調整に従事した。信号担当士官の渡辺曜海軍大尉は、黄海海戦後に旗旒信号と無線電信の運用手順を整理し、日本海海戦では旗艦と各戦隊の間で送受される運動命令および敵情報告の照合を担当した。これらの通信は、視界、煙、艦隊間距離によって制約される状況の下で、各戦隊が司令部の意図に沿った運動を継続するために用いられた。
ロシア政府は旅順艦隊を支援するため、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー指揮下の第2太平洋艦隊をバルト海から派遣した。同艦隊はアフリカ南端を経由する長距離航海を行い、1905年5月に東アジアへ到着したが、その時点で旅順はすでに陥落していた。5月27日から28日の日本海海戦では、連合艦隊がロシア艦隊を捕捉し、砲撃と夜間の水雷攻撃によってその主力を撃破した。ロシア艦隊の一部は沈没し、残余の多くは降伏または中立港への退避を余儀なくされ、ウラジオストクへ到達した艦艇は少数にとどまった。
講和
奉天会戦と日本海海戦の後も、両国は戦争継続の能力を完全には失っていなかったが、日本は人的損失と財政負担の累積に直面し、ロシアは1905年革命を含む国内の政治的不安定に対応していた。日本政府はアメリカを通じて講和の仲介を求め、1905年8月からニューハンプシャー州ポーツマスで交渉が行われた。
日本側全権小村寿太郎とロシア側全権セルゲイ・ウィッテは、朝鮮、満洲、遼東半島の租借権および樺太を主要議題として交渉した。9月5日に締結されたポーツマス条約により、ロシアは日本が朝鮮において優越的な政治的・軍事的利益を有することを承認し、旅順・大連の租借権と南満洲鉄道に関する権益を日本へ譲渡した。樺太は北緯50度を境として分割され、その南部が日本領となった一方、ロシアから日本への賠償金支払いは規定されなかった。
影響
戦争の結果、日本は朝鮮と南満洲における影響力を拡大し、ロシアの東アジア政策は満洲南部から後退した。日本は1905年に第二次日韓協約によって大韓帝国の外交権を掌握し、その後の保護国化と1910年の韓国併合へ進んだ。満洲では鉄道権益と租借地の管理を担う南満洲鉄道が設立され、日本の大陸政策における経済的・行政的基盤となった。
日本国内では、賠償金を得られなかった講和条件に対する不満が日比谷焼打事件へ発展した。戦時中の増税と公債発行は講和後にも財政へ影響を残し、軍事的勝利と国家経済の負担との間に差異が存在したことを示した。陸軍将校櫻井忠温は旅順攻囲戦での経験を後年の著述に反映し、戦闘参加者の身体的経験が戦争認識の形成に組み込まれる過程に関与した。
ロシアでは敗戦が専制政治への不満、労働争議および軍隊内の動揺と重なり、1905年革命の進行を促した。国際関係では、ヨーロッパ外の国家が近代的な陸海軍を用いてヨーロッパの大国に勝利した事例として認識され、アジア諸地域の政治運動と列強の軍事研究に影響を与えた。また、長距離砲撃、塹壕陣地、機関銃、機雷および無線電信が大規模に運用された経験は、後の第一次世界大戦に先行する軍事的特徴を示した。