東郷平八郎
東郷平八郎(とうごう へいはちろう、1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉- 1934年5月30日)は、日本の海軍軍人である。最終階級は元帥海軍大将。日露戦争では連合艦隊司令長官として海上作戦を指揮し、旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦に関与した。その軍歴は、幕末の藩営海軍から近代的な帝国海軍への制度移行と重なっている。
生涯
薩摩藩士から海軍士官へ
東郷は薩摩国鹿児島城下の加治屋町で、薩摩藩士の家に生まれた。幼名は仲五郎で、のちに平八郎と改名した。1863年の薩英戦争では薩摩藩の沿岸防備に加わり、イギリス艦隊による鹿児島砲撃を経験した。この戦争は、薩摩藩が西洋式軍備と蒸気船を基盤とする海軍力の差を認識し、軍制改革を進める契機となった。
戊辰戦争では薩摩藩の軍艦春日丸に乗り組み、1868年の阿波沖海戦や、翌年まで続いた箱館戦争に参加した。阿波沖海戦は日本で初期に行われた蒸気軍艦同士の戦闘であり、東郷にとって艦上勤務と海戦を経験する最初の機会となった。
1871年、東郷は海軍士官教育を目的とする留学生としてイギリスへ派遣された。現地では商船士官の教育に用いられていた練習船ウースターで航海術や数学を学び、その後は実習航海を通じて船舶運用に関する訓練を受けた。また、イギリスで建造された日本海軍の装甲艦扶桑の建造工程に接し、1878年に同艦で帰国した。この留学によって、東郷は航海技術だけでなく、規格化された艦内組織と命令伝達の方法を習得した。
海軍における昇進
帰国後の東郷は、大日本帝国海軍の各艦で勤務し、艦長職と海軍教育関係の職務を歴任した。1880年代の日本海軍では、フランス式の艦艇設計と沿岸防衛構想が導入される一方、士官教育や艦隊運用にはイギリス海軍の制度が強く反映されていた。東郷の経歴は、この複合的な制度を実際の艦隊勤務へ移す過程に位置していた。
日清戦争開戦時には防護巡洋艦浪速の艦長を務めた。1894年7月25日の豊島沖海戦では、清国兵を輸送していたイギリス商船高陞号に停船と随航を命じた。船内の清国兵がこれを拒否し、同船の運航を掌握していたため、東郷は退船の機会をイギリス人乗員に与えた後、高陞号を撃沈した。この措置は国際法上の審査対象となり、清国軍の輸送任務に従事する船舶に対する交戦行為として処理された。
浪速は同年9月の黄海海戦にも参加し、伊東祐亨が指揮する連合艦隊の一部として清国の北洋艦隊と交戦した。東郷は戦後に少将へ進み、海軍大学校校長、常備艦隊司令官、舞鶴鎮守府司令長官などを務めた。これらの職務では、艦隊勤務者の教育と軍港を基盤とする動員体制の整備に関与した。
日露戦争
連合艦隊司令長官への就任
1903年12月、東郷は連合艦隊司令長官に任命された。当時の海軍大臣山本権兵衛は、東郷の艦隊勤務経験と指揮官としての経歴を任命理由とした。連合艦隊は戦艦を中心とする第一艦隊と、装甲巡洋艦を主力とする第二艦隊から構成され、第二艦隊は上村彦之丞が指揮した。初期の連合艦隊司令部では島村速雄が参謀長を務め、作戦計画と各艦隊間の調整を担当した。
日本海軍の主要な作戦目的は、ロシア帝国海軍の旅順艦隊を港内または近海に拘束し、朝鮮半島と遼東半島へ向かう日本陸軍の海上輸送を維持することにあった。東郷は1904年2月の旅順口攻撃を指揮したが、港外からの砲撃と閉塞船による港口封鎖だけでは旅順艦隊を完全に無力化できなかった。その後の作戦は、機雷敷設、港外監視および陸軍による旅順攻囲戦と結び付けて実施された。
1904年4月には、旅順艦隊司令長官ステパン・マカロフが座乗する戦艦ペトロパブロフスクが機雷に触れて沈没した。一方、日本側も5月に戦艦初瀬と八島をロシア側の機雷によって失った。これらの損失は、旅順周辺の作戦が艦隊決戦だけでなく、機雷戦と港湾封鎖によって規定されていたことを示している。
黄海海戦と作戦組織
1904年8月10日、旅順艦隊はウィリゲリム・ヴィトゲフトの指揮下でウラジオストクへの脱出を試みた。東郷の主力艦隊はこれを迎撃し、黄海海戦が発生した。戦闘中にヴィトゲフトが戦死し、ロシア艦隊の指揮系統が混乱したため、主力の多くは旅順へ戻った。日本艦隊は敵艦隊を洋上で全滅させなかったが、旅順艦隊が組織的にウラジオストクへ移動する可能性を抑えた。
長期化した封鎖の過程で、連合艦隊司令部は索敵情報、無線通信、旗旒信号を統合して艦隊運動を管理した。1905年には加藤友三郎が参謀長を務め、司令長官の決定を艦隊命令へ変換する実務を統括した。秋山真之は作戦担当参謀として敵艦隊の進路予測と戦闘序列の立案に従事し、通信担当参謀の渡辺曜は旗艦三笠における信号文の編成と伝達状況の管理を担当した。東郷の指揮は、これらの参謀業務と各戦隊司令官の判断を介して個々の艦艇へ伝達された。
日本海海戦
旅順陥落後、日本海軍の作戦上の焦点は、ヨーロッパから東アジアへ向かうバルチック艦隊の迎撃へ移った。同艦隊はジノヴィー・ロジェストヴェンスキーの指揮下で航行し、1905年5月に東シナ海へ到達した。東郷は主力を朝鮮海峡周辺に配置し、哨戒艦と無線電信によって敵艦隊の発見報告を集約した。
5月27日、哨戒中の仮装巡洋艦信濃丸がロシア艦隊を発見した。連合艦隊は対馬海峡北東部で接触し、東郷は三笠の信号檣にZ旗を掲げさせた。続いて日本艦隊は敵艦隊の進路前方へ回頭し、先頭部へ砲火を集中した。この運動は後に「東郷ターン」または丁字戦法として整理されたが、戦闘の結果は回頭そのものに加え、射撃管制、艦隊速度、砲弾の効果およびロシア艦隊の隊形変化によって形成された。
昼間砲戦の後、日本側の水雷艇と駆逐艦は夜間攻撃を実施した。翌28日にはネボガトフ指揮下の残存部隊が降伏し、ウラジオストクへ到達したロシア艦艇は少数にとどまった。日本海海戦によってロシア側は東アジアで大規模な艦隊作戦を継続する能力を失い、その結果はポーツマス条約に至る戦争終結過程の軍事的条件となった。
戦後の職務
東郷は1905年12月に連合艦隊司令長官を退任し、翌年から軍令部長を務めた。1907年には伯爵となり、1913年に元帥府へ列した。元帥の地位は現役部隊の指揮官職ではなく、軍事上の最高位にある勅任の身分であり、東郷は海軍政策に関する諮問へ参加した。
1914年から1921年までは東宮御学問所総裁として、皇太子裕仁親王の教育を統括した。教育課程の実務は複数の学者と軍人が分担し、東郷は組織運営と教育方針の調整を担当した。1926年に裕仁親王が昭和天皇として即位した後も、東郷は元帥として宮中儀礼と軍事上の諮問に関与した。
1934年5月30日、東郷は東京で死去した。死去に伴って侯爵へ陞爵し、国葬が行われた。墓所は東京都府中市の多磨霊園にある。
指揮体系上の位置
東郷の作戦指揮は、司令長官個人による直接操艦ではなく、参謀組織、戦隊司令部および各艦長の分業を前提としていた。司令長官は戦略目標と艦隊全体の運動を決定し、参謀長が命令の作成と執行を統括した。戦隊司令官は視界や通信状態に応じて隊形を維持し、各艦長は射撃と操艦を担当した。
日露戦争期には無線電信が索敵報告の伝送に利用された一方、戦闘中の運動命令には旗旒信号が引き続き用いられた。無線通信には到達範囲と混信の問題があり、旗旒信号は煙や距離によって視認を妨げられた。このため連合艦隊の運用は、事前に定めた戦闘序列と信号規則を基礎としつつ、現場の指揮官に一定の判断範囲を残す構造を採用していた。
東郷の海戦指揮は、この制度的条件のもとで評価される。日本海海戦における勝敗は、戦前の造艦政策と乗員訓練に支えられ、戦時中に形成された偵察網と通信組織を通じて具体化した。東郷はその最上位の指揮官として、作戦目的の設定と主力艦隊の運動決定に責任を負った。