長良型軽巡洋艦
長良型軽巡洋艦は、大日本帝国海軍が1920年代前半に整備した軽巡洋艦の艦級である。長良、五十鈴、名取、由良、鬼怒、阿武隈の6隻から構成され、先行する球磨型軽巡洋艦の船体と機関配置を継承しながら、主として魚雷兵装と航空運用設備を改めた。全艦が太平洋戦争に参加し、艦隊旗艦、水雷戦隊旗艦、船団護衛艦および輸送支援艦として運用されたが、1945年までに6隻すべてが戦没した。
設計上の位置づけ
長良型は、1917年度および1918年度の八四艦隊案に基づく5,500トン級巡洋艦の一群に属する。基本設計は球磨型を発展させたものであり、細長い船体、前部の三脚式前檣、3本の煙突、および艦尾寄りに配置された主機械室という全体構成を維持した。この設計は、単艦による砲戦よりも、駆逐艦部隊の指揮と高速航行を重視していた。
基準排水量は約5,570英トン、全長は約162メートル、最大幅は約14.2メートルであった。主機は4基の蒸気タービンで、12基の水管式ボイラーから蒸気を供給し、4軸を介して約90,000軸馬力を発生した。計画速力は36ノットであり、竣工時には水雷戦隊に随伴するための速力を確保していた。一方、後年に対空火器、電波兵器および各種の指揮設備が追加された結果、排水量は増加し、実用上の速力も低下した。
球磨型との主要な相違は、53.3センチ魚雷発射管に代えて61センチ連装魚雷発射管4基を採用した点にあった。この変更は、後に九三式魚雷を運用するための基礎となった。ただし、発射管の換装時期と装備内容は各艦で異なり、長良型全体が同一の魚雷兵装を一貫して保持したわけではない。
兵装と航空設備
竣工時の主砲は、50口径三年式14センチ単装砲7門であった。砲塔ではなく防盾付きの単装砲架を採用し、船体中心線上および両舷に分散配置したため、すべての砲を同一方向へ指向することはできなかった。この配置は建造時の軽巡洋艦に一般的なものであり、水雷戦隊旗艦として駆逐艦と交戦する状況を想定していた。
初期の航空設備には、艦橋前方の砲塔状格納庫と、2番主砲上方に設けられた滑走台が含まれていた。滑走台方式は運用上の制約が大きく、1930年代までに多くの艦で撤去され、旋回式カタパルトと水上偵察機用設備へ置き換えられた。これにより、艦隊前方の索敵、弾着観測および連絡任務を艦載機が担当できるようになった。
戦時改装では、航空設備と一部の14センチ砲を撤去し、九六式二十五粍高角機銃の増備、爆雷投射設備の追加およびレーダーの搭載が進められた。改装内容は艦ごとの差が大きく、対空火力の強化と上部重量の増加が同時に生じた。
五十鈴は1944年に防空巡洋艦兼対潜護衛艦へ改装され、従来の14センチ砲をすべて撤去したうえで、40口径八九式12.7センチ連装高角砲3基を搭載した。さらに多数の25ミリ機銃、対空捜索用電探、爆雷および水中聴音装置を装備し、同型艦の原設計から最も大きく変化した艦となった。この改装は、艦隊決戦を前提とした水雷戦隊旗艦から、航空攻撃と潜水艦攻撃に対応する護衛艦への任務転換を示していた。
同型艦
| 艦名 | 建造所 | 竣工 | 最終状況 |
|---|---|---|---|
| 長良 | 佐世保海軍工廠 | 1922年 | 1944年8月、米潜水艦クローカーの雷撃で沈没 |
| 五十鈴 | 浦賀船渠 | 1923年 | 1945年4月、米潜水艦チャーおよびガビランの雷撃で沈没 |
| 名取 | 三菱長崎造船所 | 1922年 | 1944年8月、米潜水艦ハードヘッドの雷撃で沈没 |
| 由良 | 佐世保海軍工廠 | 1923年 | 1942年10月、航空攻撃後に自沈処分 |
| 鬼怒 | 川崎造船所 | 1922年 | 1944年10月、米艦載機の攻撃で沈没 |
| 阿武隈 | 浦賀船渠 | 1925年 | 1944年10月、魚雷艇と航空機の攻撃を受け沈没 |
艦隊運用
開戦初期
太平洋戦争開戦時、長良型各艦は複数の水雷戦隊および方面艦隊に分散配置されていた。阿武隈は第一水雷戦隊旗艦として真珠湾攻撃部隊の警戒に従事し、長良、名取、由良、鬼怒および五十鈴は、フィリピン、マレー半島、蘭領東インド方面の上陸作戦を支援した。これらの任務では、輸送船団の直接護衛だけでなく、駆逐艦部隊の指揮、海上交通路の警戒、および陸上目標への砲撃も実施された。
長良は1942年6月のミッドウェー海戦で機動部隊に属し、空母赤城が行動不能となった後には、南雲忠一中将の将旗を一時的に受け入れた。この旗艦移転は航空母艦部隊の指揮機能を維持するための措置であり、軽巡洋艦が備えていた通信設備と司令部収容能力が利用された。
ソロモン諸島方面
1942年後半、長良、五十鈴および由良はガダルカナル島の戦いに関連する輸送、護衛および夜間戦闘へ投入された。長良型の速力と魚雷兵装は夜間行動に適合していたが、継続的な航空偵察を受ける海域では、限定的な対空火力と防御力が運用上の制約となった。
由良は1942年10月25日、サンタイサベル島付近で米軍機の攻撃を受け、機関部への浸水と火災によって航行不能となった。乗員の移乗後、味方駆逐艦の砲撃と魚雷により処分され、太平洋戦争中に失われた最初の日本海軍軽巡洋艦となった。五十鈴も同年11月の第三次ソロモン海戦前後に損傷し、その後の修理過程で対空兵装を段階的に増強した。
アリューシャン方面
阿武隈は北方部隊に属し、1943年3月のアッツ島沖海戦および同年7月のキスカ島撤退作戦に参加した。撤退作戦では、木村昌福少将が阿武隈から第一水雷戦隊を指揮し、濃霧下でキスカ島へ進入した巡洋艦と駆逐艦が守備隊を収容した。
第一水雷戦隊司令部の航海参謀であった渡辺曜海軍少佐は、阿武隈において各艦から提出された潮流観測、視程記録および推測位置を統合し、霧中航行時の隊形間隔と変針時刻を航海命令へ反映した。作戦部隊は1943年7月29日にキスカ湾へ入泊し、約5,000人の守備隊を短時間で収容した後、米軍との水上戦闘を生じさせずに撤収した。
1944年以降の損耗
1944年に入ると、長良型の主要任務は船団護衛と緊急輸送へ移行した。長良は同年8月7日、九州西方で米潜水艦クローカーの雷撃を受けて沈没し、名取も8月18日にサマール島東方で米潜水艦ハードヘッドによって撃沈された。両艦の喪失は、日本近海とフィリピン方面を結ぶ航路に米潜水艦が継続的に進出していた状況と重なっていた。
鬼怒と阿武隈は1944年10月のレイテ沖海戦に関連する作戦で失われた。阿武隈はスリガオ海峡海戦中に米魚雷艇の雷撃を受けて落伍し、翌日の航空攻撃によって沈没した。鬼怒はレイテ島周辺への陸兵輸送後、ビサヤン海で米空母艦載機の攻撃を受け、船体への複数の命中弾と至近弾によって沈没した。
五十鈴は防空・対潜改装後、フィリピン方面と蘭領東インド方面で船団護衛に従事した。1945年4月7日、スンバワ島北方で米潜水艦チャーおよびガビランの魚雷攻撃を受けて沈没し、これによって長良型は全艦を喪失した。
設計と運用の総合的評価
長良型の艦歴は、第一次世界大戦後に成立した水雷戦隊旗艦の設計が、航空攻撃と潜水艦攻撃を中心とする戦時環境へ適応していく過程を示している。竣工時の高速力、61センチ魚雷兵装および司令部設備は、駆逐艦部隊を統率する任務に対応していたが、防御構造と対空火力は1940年代の攻撃手段に対して限定的であった。
戦時中の改装は対空火器、電探および対潜装備を追加したものの、船体規模と復原性が改装範囲を制約した。五十鈴の全面的な兵装変更は任務転換を明確にした一方、他の同型艦では輸送、護衛および水雷戦隊指揮が並行して要求され、装備構成の統一は行われなかった。最終的に各艦の損失原因は航空攻撃または潜水艦雷撃に集中し、長良型が想定していた水上艦同士の高速戦闘とは異なる戦場環境が、その運用末期を規定した。