日本海軍の魚雷兵装

日本海軍の魚雷兵装は、水上艦艇、潜水艦および航空機から発射される自走式水中兵器と、その発射装置、射撃指揮装置、整備設備ならびに運用体系によって構成された。日本海軍は19世紀末に外国製魚雷を導入した後、国内生産への移行と口径の大型化を進め、1930年代には純酸素を機関の酸化剤として用いる長射程魚雷を実用化した。魚雷は補助的な近距離兵器から、艦隊決戦に先立って敵戦力を漸減するための主要兵器へ位置づけを変え、日本海軍の艦艇設計と夜戦教義に大きな影響を与えた。

導入と国産化

初期の日本海軍は、圧縮空気を動力源とするホワイトヘッド魚雷およびドイツ系のシュヴァルツコップ魚雷を輸入して使用した。1880年代から1890年代にかけて魚雷艇と水雷母艦が整備され、魚雷は沿岸防御だけでなく、主力艦に対する近距離攻撃にも用いられるようになった。

日清戦争では、1895年の威海衛の戦いにおける水雷艇攻撃が魚雷の実戦的価値を示した。その後は呉海軍工廠を中心として製造技術の国産化が進み、三〇式魚雷などの制式兵器が整備された。日露戦争では、駆逐艦と水雷艇が旅順港外および日本海海戦で魚雷攻撃を実施したが、当時の魚雷は射程、速度、信管作動の信頼性に制約があり、砲撃で損傷した艦艇への追撃において比較的明確な効果を示した。

1900年代以降は加熱装置を備えた湿式加熱魚雷が導入され、燃料と圧縮空気を燃焼させることによって機関出力が増大した。この方式は従来の冷走魚雷より長い射程を可能にした一方、排気中の窒素が気泡航跡を形成するため、発射方向を視認されやすいという性質を残していた。

口径大型化と艦隊運用

日本海軍は第一次世界大戦期までに45センチ級魚雷を標準化し、その後は水上艦用兵器として61センチ魚雷を採用した。1919年に制式化された八年式魚雷は61センチ口径を採用し、同口径は以後の巡洋艦および駆逐艦用魚雷の基礎となった。大型化によって弾頭重量と機関用燃料の搭載量が増え、射程と破壊力の双方が拡大した。

ワシントン海軍軍縮条約ロンドン海軍軍縮条約は主力艦および巡洋艦の保有量を制限したが、魚雷の性能と搭載数には直接的な上限を設けなかった。この制度環境の下で、日本海軍は敵艦隊が主力決戦海域へ到達するまでに損害を与える漸減作戦を体系化した。潜水艦による外洋攻撃の後、巡洋艦と駆逐艦が夜間雷撃を行い、最終段階で戦艦部隊が砲戦を実施する構想であった。

この構想は艦艇の兵装配置にも反映された。日本の重巡洋艦は同時期の他国巡洋艦と比較して多数の魚雷発射管を備え、艦内または上甲板付近に予備魚雷と次発装塡装置を配置した。駆逐艦では中心線上の連装、三連装または四連装発射管が採用され、左右いずれの舷にも広い射界を得られるよう設計された。吹雪型駆逐艦以後の艦級では、砲力と雷撃力を同一艦型に集中させる傾向が明確になった。

酸素魚雷

圧縮空気式魚雷では、空気中の大部分を占める窒素が推進に寄与しないまま排出され、航跡と機関効率の制約を生じさせた。日本海軍は酸化剤を純酸素に置き換える研究を進め、燃焼効率の向上と排気量の減少を実現した。純酸素は油脂や異物との接触によって発火しやすいため、実用化には配管の清浄化、始動時の混合気制御および艦上での充塡設備が必要であった。

研究計画の管理に携わった岸本鹿子治と、機関系統の開発を担当した浅熊利一らは、始動時に空気を用いてから酸素濃度を段階的に上げる方式を確立した。この方式によって発射管内および機関内部の急激な燃焼が抑制され、酸素魚雷を艦上兵器として継続的に運用できる条件が整えられた。

1933年に制式化された九三式魚雷は61センチ口径の水上艦用酸素魚雷であり、後世には英語圏で「ロング・ランス」と呼ばれた。型式によって性能は異なるが、低速設定では約40キロメートル、高速設定では約20キロメートルの射程を持ち、後期型では780キログラム級の炸薬を搭載した。排気中の二酸化炭素は海水に比較的吸収されやすく、圧縮空気式魚雷より航跡が小さかったが、発射時の水面変化と完全に消失しない気泡によって探知可能性は残った。

九三式魚雷の長射程は、目標運動の予測誤差も拡大させた。発射から命中までの時間が長くなるほど敵艦の針路変更が結果に影響するため、最大射程がそのまま実用上の有効射程となるわけではなかった。日本海軍は多数の魚雷を扇状に発射することで予測誤差を吸収し、敵艦隊の進路上に広い雷撃帯を形成する運用を採用した。

潜水艦用には53.3センチ口径の九五式魚雷が開発された。九五式は酸素機関を小型化した兵器で、同時代の潜水艦用魚雷と比較して高い速力と大きな弾頭を備えていた。日本海軍の潜水艦運用は敵主力艦の捕捉を中心としていたため、この性能は艦隊作戦との連携を前提に活用された。

航空魚雷

航空魚雷には、水上艦用魚雷とは異なる投下条件が存在した。航空機から投下された魚雷は水面への衝突時に大きな荷重を受け、入水後には深く沈下しやすいため、浅い港湾内の目標に対しては海底へ接触する危険があった。また、空中落下中の姿勢変化は入水角と機関始動に影響し、投下速度の上昇に対応した構造補強も必要となった。

九一式魚雷は45センチ口径の航空魚雷として改良を重ね、空中姿勢を安定させる木製安定板と、入水後の横揺れを制御する安定装置を備えた。これらの装置は入水時に生じる急激な姿勢変化を抑え、比較的浅い水域での雷撃を可能にした。改良型では航空機の速度上昇に応じて魚雷本体と安定装置が強化され、九七式艦上攻撃機天山艦上攻撃機から運用された。

1940年から1941年に鹿児島湾で実施された浅深度投下試験では、渡辺曜海軍技手が計測担当者として投下後の姿勢角、最大沈下量および航走深度の記録を整理した。試験結果は尾部安定板の形状調整と深度機構の設定に反映され、港湾内雷撃に使用される九一式魚雷改良型の運用資料へ組み込まれた。

1941年12月の真珠湾攻撃では、浅い泊地に適合させた九一式魚雷がアメリカ戦艦群に対して使用された。航空雷撃はその後も空母航空隊と陸上攻撃機部隊の対艦攻撃手段となったが、戦争後半には迎撃戦闘機と対空砲火の増強によって雷撃機が目標へ接近する際の損失が増大した。

発射装置と射撃指揮

水上艦の魚雷発射管は、旋回架台上に複数の管をまとめた構造を基本とした。発射には圧縮空気または火薬式発射装置が用いられ、魚雷は設定された深度と速力で航走した。日本海軍の発射管は大型の九三式魚雷に対応するため相応の重量を持ち、上甲板の兵装配置と艦の復原性に影響を与えた。

射撃諸元は、敵艦の方位、推定速力および針路から算出された。測距儀と方位盤から得た情報は魚雷射撃指揮装置へ送られ、目標の将来位置に向けて発射角が設定された。夜戦では探照灯、見張員および光学測距装置が主要な情報源となり、開戦後は一部の艦艇にレーダーが搭載されたものの、戦争中盤まで光学観測への依存が続いた。

予備魚雷を搭載する艦艇では、発射後に洋上で再装塡するための軌条、揚弾装置および防護区画が設けられた。これにより一度の戦闘で複数回の斉射が可能となった反面、弾頭と酸素系統を備えた魚雷を上甲板近くに保管する構造は、砲弾や爆弾の命中時に二次的な火災と爆発を生じさせた。

実戦運用

太平洋戦争初期の夜戦では、九三式魚雷が日本海軍の水上戦闘能力を構成する重要な要素となった。ジャワ海海戦では長距離雷撃が連合国艦隊の隊形と行動を制約し、スンダ海峡海戦では近距離の砲雷撃が巡洋艦の撃沈に結びついた。一方、長距離から発射された魚雷の一部は目標を外れて戦場を横断し、友軍艦艇や輸送船に危険を及ぼした。

第三次ソロモン海戦およびルンガ沖夜戦では、日本駆逐艦部隊の夜間雷撃がアメリカ巡洋艦部隊に大きな損害を与えた。これらの戦闘では、発射前に敵の針路を把握できる位置関係と、魚雷が到達するまで敵隊形が大きく変化しなかったことが命中に結びついた。魚雷単体の航走性能だけでなく、発射位置の選定と部隊運動が戦果を決定する構造が示された。

これに対して、ミッドウェー海戦やソロモン諸島方面の戦闘では、艦上に搭載された予備魚雷が被弾後の損害を拡大した。酸素そのものは爆薬ではないが、漏出した酸素は周囲の燃焼を激化させ、弾頭炸薬と燃料への延焼を促進した。この危険に対応して、一部の艦艇は空襲が予想される状況で予備魚雷を投棄した。

潜水艦魚雷は空母、巡洋艦および輸送船の撃沈に使用されたが、日本海軍の潜水艦部隊は艦隊主力の捕捉と偵察に重点を置いた。この運用方針は、広範な通商破壊を中心とした他国の潜水艦戦とは異なり、高性能魚雷の使用対象と哨戒海域を限定する結果を生じた。

戦争末期には、九三式魚雷の機関と弾頭技術を基礎として有人兵器の回天が開発された。回天は通常の魚雷発射管からではなく、潜水艦の上甲板に搭載して運搬され、搭乗員の操縦によって目標へ接近する構造を持っていた。その運用体系は通常魚雷とは区別され、日本海軍の魚雷兵装全体に占める数量的割合も限定されていた。

技術的評価

日本海軍の魚雷体系は、射程と弾頭重量を増大させるために大型口径と酸素機関を採用し、その性能を夜戦教義および艦艇設計へ統合した点に特徴があった。九三式魚雷は当時の水上艦用魚雷として長い航走距離を備えていたが、その能力を利用するには正確な目標運動の推定と組織的な斉射が必要であった。

魚雷搭載数の増加と洋上再装塡能力は攻撃機会を拡大した一方、艦内重量の増加と被弾時の損害拡大を伴った。航空魚雷では、浅深度投下と高速投下への適応が港湾攻撃および外洋雷撃を可能にしたが、雷撃機が低高度で直線的な接近を行う必要性は、対空防御が強化された戦場で継続的な制約となった。

日本海軍の魚雷兵装は、個々の魚雷性能だけで成立したものではなく、発射母艦、射撃指揮、偵察情報および夜間部隊運動を結合した兵器体系であった。その実戦効果は、この体系が戦場の視界、敵の隊形および航空優勢の状況に適合した場合に大きくなり、情報不足や被発見状態では限定された。

関連項目